“ボリウッド・ムービー”というと『ムトゥ 踊るマハラジャ』のような「歌って踊って」のハッピーな物語を思い浮かべるかもしれないが、1995年制作の『ボンベイ(Bombay)』(マニ・ラトナム監督)はそんな常識を覆す社会派映画だ。
ちなみに、インドでは右派・伝統主義者による「歴史の見直し」が進められており、イギリス植民地時代の名称が次々と「インドの正統な歴史に基づいた」名称に変更されている。インド最大の都市である「ボンベイ」も、映画公開と同じ1995年にマラーティー語の「ムンバイ」に変わっている。
[参考記事]
●インドの保守政権を牛耳るヒンドゥー至上主義者たちのねじれた民族主義
映画『ボンベイ』が高く評価されたのは、インド社会が抱える大きな問題である「コミュナリズム(宗教対立主義)」を真正面から取り上げたからだ。そのため撮影中に、監督の家に爆弾が投げ込まれる事件も起きたという。
物語は、ムンバイでジャーナリズムを学ぶ若者(ヒンドゥー教徒でバラモンの息子)が、南インドの海辺の小さな村に帰省したときに、石工の美しい娘に一目ぼれするところから始まる。石工の娘はムスリムで、インドの農村では宗教を超えた結婚は許されざるものとされていた。激怒する両家の父親の反対を押し切って2人がムンバイに駆け落ちするまでが前半で、お約束の「歌って踊って」もあるインド版『ロミオとジュリエット』のような話だ。
ところが後半になると、物語のトーンは大きく変わる。
2人はムンバイで結婚し、双子の男の子を授かって幸福な生活を送っていたが、実家とはずっと疎遠だった。ところがあるとき、ムンバイでヒンドゥーとイスラームの対立から暴動が起き、それが大きく報じられたことで、バラモンの父親が息子と孫を心配して訪ねてくる。かわいらしい孫にはじめて会ったバラモンの祖父は、これまで拒絶していたムスリムの嫁にもこころを開くようになる。
するとそこに、娘と孫を心配したムスリムの石工が訪ねてくる。バラモンとムスリムの石工は互いを嫌いあっているが、あどけない孫の前で喧嘩するわけにもいかず、仲のよいふりを装っているうちにすこしずつ気持ちが通い合ってくる。
ところがその間に、ムンバイの町ではふたたびヒンドゥーとイスラームの緊張が増していた。ある日の夜、バラモンの祖父が孫を連れて歩いていると、イスラーム原理主義の若者たちに取り囲まれ、難詰される。そこに通りかかったのがムスリムの石工で、彼はバラモンを自分の兄だといってかばい、窮地を脱することができた。
こうして映画は、いがみあっていた2人が和解するハッピーエンドに向かうかと思いきや、さらなる大暴動が発生し家族一人ひとりの運命を翻弄する悲劇が訪れるのだ。映画『ボンベイ』のいちばんの見所は怒涛のようなこの暴動の描写で、多数のエキストラを使った迫真の群集シーンはもはや日本映画では実現不可能だろう。現在はレンタルDVD化されたので、興味をもった方はぜひ観てほしい。

『スラムドッグ$ミリオネア』の舞台、ターラヴィーでの暴動
映画『ボンベイ』で描かれた暴動のきっかけは、1992年12月6日、北部ウッタル・プラデシュ州の「ヒンドゥー教の聖地」アヨーディヤのモスク、バブリ・マスジッド(バーブルのモスク)を数千人のヒンドゥーの暴徒がダイナマイトやツルハシで破壊したことだった。
ヒンドゥー原理主義者によれば、ムガール帝国の初代皇帝バーブルの名をとったバブリ・マスジッドは1528年に破壊されたヒンドゥー寺院の跡に建てられたものだ。アヨーディヤのヒンドゥー寺院は、叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ王子の生誕地でもあった。だからこそ「真のヒンドゥー」はモスクを破壊し、そこにラーマ神殿を再建しなければならないのだ。――ちなみにラーマは神話上の人物で実在を示す歴史的記録はまったくなく、モスクの場所にヒンドゥー寺院かあったとの証拠もない。
この事件が全国に報じられると、ムンバイのダーラヴィー地区(Dharavi)では、ヒンドゥー原理主義団体であるシヴ・セーナーとBJP(インド人民党)がバブリ・マスジット破壊を祝う祭列を行ない、これにムスリムがはげしく抗議した。そのムスリムに向けて警察が無差別に発砲したことから暴動に発展したとされている。この第1回の暴動は12月16日まで10日ちかくつづいた。
暴動が起きたダーラヴィーはムンバイ最大のスラムのひとつで、アカデミー賞作品賞を受賞したダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』の舞台としても知られている。この映画が世界的に大ヒットしたことで地元の観光業者が「スラムツアー」を企画するようになった。
ムンバイを訪れたときに私もこのツアーに参加してみたのだが、そのときはカリフォルニア在住の中国系アメリカ人の若い女性と、ムンバイの大学で社会学を研究中のイスラエルの女性(40代くらい)といっしょだった。アメリカ人女性はビジネスでムンバイを訪れ、「映画で興味をもったから申し込んだ」といっていた。イスラエルの研究者は、大学構内の寮で暮らしていてムンバイの街をほとんど知らないので参加した、とのことだった。
実際に訪れてみると、ダーラヴィーはスラムというよりも、地方から出稼ぎにやってきたひとたちが働く「町工場」が集まったようなところだった。仕事の多くはビンやカン、アルミなど廃品のリサイクルだが、パンや菓子などの食品工場もあった(有毒物質を扱うリサイクル工場とパン工場が隣り合わせになっている)。
印象的だったのは、道路1本を隔てて、ヒンドゥー地区とムスリム地区にはっきりと分かれていたことだ。若いガイド(ヒンドゥー地区の低カースト出身)の話では、両者の交流はなく、子どもの学校も別で、何十年住んでいても相手のことはまったく知らないという。
アヨーディヤのモスク破壊に端を発した1992年12月のムンバイの暴動はいったん終息したものの、翌93年1月5日に市内で2人のムスリム男性が刺殺される事件が起こり、つづいてダーラヴィーで武装したヒンドゥーがムスリム居住地を襲撃したことで市内100カ所で放火が続発、州首相が連邦政府に軍隊派遣を要請する事態に至った。これが映画『ボンベイ』のクライマックスとなる2度目の暴動で、警察と軍隊を含めた30万人が治安維持にあたったものの1月26日まで継続した。
その後の調査では、この暴動でムスリム575人、ヒンドゥー 275人など約900人が死亡した。死亡原因は市警察の発砲356人、刺殺347人、放火91人、群衆行動による撲殺80人、住民間の発砲22人などとなっている。

次のページ>> イギリスの「コミュナリズム」という社会分断化策
|
|