橘玲の世界投資見聞録 2017年7月28日

道に牛が歩いているかと思うと「近未来」が現れるインドの衝撃
[橘玲の世界投資見聞録]

世界でもっとも野心的な「電子化」を行なっているインド

 日本でもいよいよマイナンバーの本格運用がはじまったが、そのモデルが北欧の国々であることはよく知られている。

 スウェーデンでは出生とともに個人番号が付与され、所得税の確定申告から失業保険、児童手当など社会保障の給付申請、医療費の支払い、年金情報の提供、パスポートや運転免許証の個人認証、公立図書館の利用まで、さまざまな行政サービスを自宅にいながら電子的に済ませることができる。さらには民間事業者もその情報を(本人の同意のもとに)利用でき、銀行・証券会社の口座開設、クレジットカードの利用、保険取引、賃貸住宅の契約、携帯電話の新規契約まで、「番号なしでは生活できない」といわれるほど国民生活に浸透している。さらに小国ながらエストニアは「電子政府立国」を掲げ、身分証明証、健康保険証、運転免許証、納税、医療記録、選挙投票、法人登記などほぼすべての行政サービスが電子化されている。

 しかし、世界でもっとも野心的な「電子化」を行なっているのがインドだということはあまり知られていない。

 2009年、インド政府は大手IT企業インフォシスの共同創業者ナンダン・ニレカニの陣頭指揮のもと、すべての国民に12桁のID番号(インド固有識別番号庁UIDAI)を付与する「Aadhaar(アドハー)」プロジェクトを開始し、翌10年に一部の運用が開始された(Aadhaarという言葉には「基礎」「支持」という意味があるという)。これだけならよくある「国民総背番号制」だが、この制度のきわだった特徴は、国民一人ひとりの顔画像・指紋、目の虹彩画像を登録する生体認証システムだということだ。

IT企業で働くエリートたち                    (Photo:©Alt Invest Com) 

 

 インドではカースト制度による差別と貧困が深刻な社会問題になっており、さまざまなアファーマティブ・アクション(少数者への優遇措置)が講じられている。これは特定の下位(被差別)カーストやトライブ(アニミズムを信じる伝統的部族で、ヒンドゥー社会では下位カースト以上に差別されている)に対し、大学への入学、公務員への就職、公営住宅への入居などの優先枠を留保(リザーブ)するもので、貧困の解消に大きな役割を果たしたものの、同時にさまざまな社会の軋轢を生んできた。

 政策の目的は貧困層を底上げしてカーストや宗教による差別をなくしていくことだが、留保制度が定着すると、下位カーストやトライブにとどまったまま公営住宅に安く入居し、公務員の安定した職を得たほうが得だと考えるひとたちが出てくる。こうして貧困層の支持を受けた政党が、差別解消ではなく既得権の維持(カーストの固定化)を求めるようになる。

 さらには制度の矛盾を突いて、下位カーストやトライブになりすまし、不正に年金や補助金を受給したり、大学入学や公務員への就職に留保枠を確保しようとする行為が横行するようになった。イギリス植民地支配以降のインドの歴史では、下位カーストが支配層である(バラモン、クシャトリア、バイシャなどの)上位カーストになりすます動きが広く見られたが、独立後に大規模なアファーマティブ・アクションが実施されると、いつのまにかその流れが逆転してしまったのだ。

 当然、これはインドの政治・社会に深刻な亀裂を生み出すことになったが、いまさらリザーブ制度を縮小・廃止するのは政治的にきわめて困難だ。しかしこのままでは不正がますます拡大し、制度は持続不能になってしまうだろう。

 これが、「アドハー」プロジェクトが開始された背景だ。生体認証によって個人の(カーストなどの)属性を国家が完全に把握してしまえば、なりすましなどの不正を行なうことはできなくなる。

 「アドハー」では、個人がID(固有番号)を提示して指紋か虹彩をスキャンすると、その内容がデータベースに格納されている顔写真と照合される。現在、「アドハー」はムンバイなどの都市部で民間にも開放されており、現金もクレジットカードも使わず、IDと指紋認証だけで携帯電話の契約や店舗での支払いが完結するという。「テクノロジーによる管理」の最先端の実験は、インドで行なわれているのだ。

グルグラムの近未来都市は高架鉄道で結ばれている  (Photo:©Alt Invest Com) 

 

モディ首相の突然の高額紙幣廃止政策の評価は?

 グジャラート州首相から2014年にインド首相となったBJP(インド人民党)のナレンドラ・モディの“実験”といえば、2016年11月8日夜に突然表明された高額紙幣廃止が思い浮かぶだろう。不正蓄財や偽造紙幣を根絶するため、1000ルピー(約1700円)と500ルピー(約860円)の紙幣を翌9日午前0時で無効にするというもので、これによって国内総生産(GDP)の12%を占める約15兆ルピー(約26兆円)、現金全体の86%が消えうせるとして大騒ぎになった。インド出身の経済学者でノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センはこの政策に対し、「非公式部門は日本や米国にもまだ残っている。それをなくすのが理想だとしても、「ならば一晩でやってしまおう」というのはばかげている」と強く批判した(2017年1月12日付朝日新聞)。

 今回の旅行の目的のひとつは、「深刻な現金不足がつづいている」とされるひとびとの暮らしがどのようになっているかを見ることだった。高額紙幣廃止以降、銀行口座からの引出額が1週間に普通預金なら2万4000ルピー(約4万1000円)、当座預金は5万ルピー(約8万6000円)に制限されていたが、私がインドを訪れた翌週(3月14日)にこの規制が解除されることになっており、「現金を求めるひとびとが殺到して取りつけ騒ぎが起きるのではないか」との憶測も流れていた。

 しかし結果的には、拍子抜けするほどなにも起こらなかった。取りつけ騒ぎどころか、高額紙幣が廃止されたことすら話題にもなっていなかったのだ。

 その理由のひとつは、インド国民の大半を占める貧困層はそもそも高額紙幣などもっていないため、ほとんど影響がなかったからだろう。モディはこの“実験”の目的を脱税で溜め込んだ不正資金をあぶりだすためだとし、「歴史的な浄化の儀式が進行中だ」と宗教的なレトリックで正当化したため、敬虔なヒンドゥーは多少の不便は我慢しても政策を支持した。そもそもインドの人口13億人のうち、「納税者」は3000万人に満たないのだ。

 紙幣廃止によってインドの農村で物々交換が復活しているとの報道も流れたが、これについては日経新聞の黒沼勇史記者が現地を訪れて事実を検証している(「インド紙幣廃止で過大報道」2017年2月5日付日経新聞)。

 世界のメディアは、南部ケーララ州でアルミ食器をカヌーに載せて訪問販売するハッサンさん(57)が、食器をココナッツ72個で、圧力釜をマンゴーとの交換で売っていると報じた。黒沼記者が確認したところ、これはたしかに事実だったが、ハッサンさんが物々交換を始めたのは2002年で高額紙幣廃止のずっと前だった。中部マディヤプラデシュ州の村では「15人の農家が学費の代わりにコメを物納した」と報じられたが、実際は全生徒125人のうち6人で一部の親はすでに学費を払っていた。小作を雇う現金のない農家が、相互に働き合う「古い労働交換の慣習に戻った」と報じられた東部オディシャ州の村では、誰もが「聞いたこともない」と首をひねるばかりだったという。

 なぜこのような“フェイクニュース”が生まれたのか黒沼記者が訊ねると、カヌーで訪問販売するハッサンさんは「取材は短い電話だった」といい、小学校の責任者であるソニさん(45)は「電話すらなく、また聞きにちがいない」とこたえた。商業主義優先のインドメディアが「いにしえの物々交換に退化している」とセンセーショナルに報じる誘惑に負け、それを世界の主要メディアが引用・拡散したというのが実態のようだ。

 黒沼記者が5州の農村で紙幣廃止の仕事・生活への影響と、紙幣廃止策への評価を聞き取ったところ、「仕事や生活に響いた」との回答は73%だが、一方で紙幣廃止を支持したひとは53%だった。農村部でもひとびとは、「痛みは伴うが、不正資金にメスを入れるこの政策は支持できる」と考えていたようだ。

グルグラムの高層コンドミニアム              (Photo:©Alt Invest Com) 

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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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