大正2(1913)年の創刊から現代まで、その時代の政治経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーには、日本経済の埋もれた近現代史が描かれている。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』をさかのぼりながら紐解き、日本経済史を逆引きしていく。

 高橋是清(1854-1936)は2度、窮地の日本経済を救った。

 1度目は1927(昭和2)年4月20日、4回目の大蔵大臣に就任し、激しい金融恐慌をわずか44日間で収束させたとき。2度目は1931(昭和6)年12月13日、5回目の蔵相へ就任、昭和恐慌のさなか、就任と同時に金本位制から再離脱したときである。

 2度目の危機から逆引きしていくが、まず、昭和恐慌前後の状況を、前任者である井上準之助(1869-1932)の言動を中心に洗い出しておこう。

旧平価か新平価か――
昭和恐慌直前に起きていた「金解禁論争」

 昭和恐慌はブラックサースデーから始まる。1929年10月24日木曜日、ニューヨーク株式市場が大暴落、またたくまに地球を一周した、というわけでもない。ウォール街の大暴落は続いて10月28日、29日にも起きた。現在と違い、情報の伝達は遅く、しかも世界経済は一体化していない。

 第1次大戦(1914-1919)で崩壊した国際金本位制は、1920年代を通して各国が復帰しつつあった。もちろん、国際金本位制に復帰していた国もあれば再離脱していた国もあり、1920年代の国際貿易体制は一貫したシステムではない。

 日本は1929年7月、民政党の浜口雄幸内閣で井上準之助が蔵相へ就任し、金本位制復帰を目指していたところだった。復帰の際、旧平価(1917年8月まで金本位制に参加していたときの平価、円高)で復帰すべきか、新平価(当時の情勢に合わせた平価、円安)で復帰すべきか論争が起きていた(金本位制下の平価は基準貨幣の金含有率をもとに各国貨幣との比較で決まる)。

 井上準之助は旧平価で金本位制復帰を目指す。

 旧平価は円の価値が相対的に高い。つまり1929年時点より円高だ。金本位制から離脱した約10年前の基準(旧平価)より、この時点の円の価値(新平価)は下がっている。したがって10年前の円高水準で国際金本位制に復帰し、貿易システムを合わせれば輸出は大幅に減少することになる。

 旧平価金解禁に対して反対したのは「東洋経済新報」の石橋湛山らであった。これが有名な金解禁論争である。