橘玲の世界投資見聞録 2017年12月21日

IT先進国・中国で進む恐怖の情報管理社会の近未来
[橘玲の世界投資見聞録]

現代的な監視社会の本質は情報処理にある

 日本もいまでは至る所に監視カメラが設置されている。テロ対策特別措置法や特定秘密保護法の議論では、国民のプライバシーが危険にさらされるとの批判の声があがった。

 こうしたときに必ず出てくるのが、「やましいことがなにもないなら、そんなことを気にする必要はない」との反論だ。監視カメラの映像は事件が起きたときにしか再生されないのだから、一般人の生活にはなんの影響もない。テロ対策特別措置法が取り締まるのはテロリストだし、特定秘密保護法は防衛・外交の機密漏洩を防ぐためのものだからほとんどの国民には無関係だ――。

 この論理はものすごく強力で、おまけにある程度まで正しい。監視カメラの映像が犯人逮捕に結びついた事例は実際にあるし、テロ対策や機密を保護する法律も必要にちがいない。しかし、それにともなうプライバシー侵害を無制限に認めてしまっていいのだろうか。

 じつはこの議論は、9.11同時多発テロ以降、アメリカではげしくたたかわされている。「やましいことは何もない」論とプライバシー擁護とが対立しているのだ。

 ジョージタウン大学法科大学院教授のダニエル・J・ソロブは『プライバシーなんていらない!?』で、「安全のためならプライバシーが犠牲になってもやむを得ない」という主張を批判的に検討している。この本の原題は、「Nothing to hide(やましいことは何もない)」だ。

 ソロブはこの本で、「やましいことは何もない論」に代表される保守派の議論を否定し、「プライバシーさえ守られれば安全などどうでもいい」と主張しているわけではない。

 「安全」と「プライバシー」は、どちらかを取ればもう一方を失うようなトレード・オフの関係ではない。話をこじらせるのは、プライバシー擁護派の一部が極端な主張(監視カメラをすべて撤廃しろ)をし、保守派がそれを面白おかしく取り上げて「あんな奴らのいうとおりにしたら安全な暮らしが失われてしまう」と二者択一を迫ることだ。これではそもそも議論が成立しない。

 ソロブは、「プライバシーのない社会」というのは、ジョージ・オーウェルが『1984』で描いたようなビッグ・ブラザー(超越者)による徹底的な市民への監視・洗脳のことではないという。それは、フランツ・カフカが『審判』で描いた不可解で理不尽な迷宮世界に近い。

 銀行支配人ヨーゼフ・Kは、30歳の誕生日の朝に見知らぬ2人の男の訪問を受け、自分が逮捕されていることと監視下にあることを告げられるが、なぜ捕まったのかは教えてもらえない。Kは必死になって自分の罪がなにかを解明しようとするが、秘密裁判所が彼に関する事件記録を保有しており、それをもとに捜査が行なわれていることまでしか知ることができない。審判は進まず、弁護士は役に立たず、なにひとつわからないまま31歳の誕生日の前夜、2人の処刑人の訪問を受け、郊外の石切り場で心臓を一突きされて殺されてしまう……。

『審判』には、ビッグ・ブラザーのようなはっきりとした権力の主体は出てこない。官僚制(裁判所)はKに関する重大な判断を行なうために個人情報を用いるが、その情報がどのように用いられたかにKが関与することを拒絶する。

 ここからソロブは、現代的な監視社会の本質は、監視や情報収集というよりも「データの貯蔵・使用・分析」といった情報処理にあると指摘する。「やましいことは何もない論」は、「データベースによって引き起こされる問題を監視の問題として把握しようとすることに難点がある」のだ。

小説『審判』の恐怖の監視社会が目の前に

 「やましいことは何もない論」は、プライバシーが悪いことを隠すものだという潜在的な前提で成り立っている。テロリストや犯罪者は自分の正体を隠すためにプライバシーを隠れ蓑にしようとする、というわけだ。

 ところで『審判』において、Kはなにかの「行動」をしようとしてそれを禁止されたのではなく、彼に「やましいことは何もない」。問題はプライバシーが侵害されたことではなく、権力(官僚組織)が彼のプライバシーをどのように扱っているかわからないことであり、それ以前にどのような個人情報を保有しているのか不明なことだ。そしてソロブは、アメリカをテロリストの魔手から守るために活動しているNSA(アメリカ国家安全保障局)のような諜報機関がまさにそのような存在で、その活動が聖域化されていることによって、市民はNSAがどのような個人情報を保有し、そこからどうやってテロリストを摘発しようとしているかを知ることができないと述べる。これは日本でも同じで、わたしたちはカフカの『審判』的状況を生きているのだ。

 ソロブは現代的な監視機関の官僚主義の害悪を「無頓着、誤謬、濫用、失望、透明性及び説明責任の欠如」だとして、次の4つにまとめている。

(1) 集約 
一見して差し障りのないデータの小さな断片を組み合わせ、ひとびとが隠したいと願う情報を収集する。

(2) 排除 
政府による国家の安全保障上の措置は個人がアクセスできない巨大なデータベースで行なわれ、市民は自分の情報を知ることができない。

(3) 二次的利用 
特定の目的のために得られたデータを、本人の同意なくして無関係な目的のために活用する。

(4) 歪曲 
収集された個人情報がその人物の真の姿を映しだすとは限らない。人間像はしばしば歪曲され、無実のひとに「危険人物」のフラグが立てられる。

 

 歪曲について、ソロブは次のような例をあげている。

 あるひとがメタンフェタミンの製造方法に関する数冊の本を購入したことを当局が知ったとする。その情報により、当局は彼がメタンフェタミン製造所をつくっているのではないかと疑うことになる。だが彼は小説家で、メタンフェタミンをつくる人物を登場させようと考えただけかもしれない。

 当局に欠けているのはプライバシーの「完全なストーリー」なのだが、小説家は自分がなぜ嫌疑を受けたのかを知ることができない。

 現代においてこうした『審判』的状況にもっとも近いのが中国だろう。「くまのプーさん」についてSNSで話題にしただけで削除され、その記録はずっと当局のデータベースに残って、いつどのようなかたちで使われるかわからないのだから。 

 もちろん「やましいことは何もない論」のひとたちは、「中国と先進国はちがう」と主張するだろう。日本には個人情報を守るための法律や、人権の尊重をうたった憲法がある。

 しかしほんとうに、そこまで無邪気に国家権力を信じることができるのか。中国当局が利用している監視テクノロジーは技術的にはなんら目新しいものではなく、先進諸国でもかんたんに利用できる(あるいはすでに利用している)ものばかりだ。

 日本人はずっと、中国を「1周遅れ」だと見なしてきた。だがいつのまにか、巨大な隣国のひとびとは「未来世界」を生きているのかもしれない。

深センの「摩天楼」。京基100の最上階ロビーから  (Photo:cAlt Invest Com) 

 

 

橘 玲(たちばな あきら)

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 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)など。新刊『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)が好評発売中。

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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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