橘玲の世界投資見聞録 2017年12月29日

アイデンティティ主義がもたらす
さまざまな不愉快な出来事の原因と解決策
[橘玲の世界投資見聞録]

アイデンティティは「共同体のなかの私」として形成される

 アイデンティティは「自分が自分であること」「私らしさ」などと説明されるがこれは正しくない。ヒトは徹底的に社会的な動物だから、アイデンティティとは「共同体のなかの私」の核心にあるものだ。

 アイデンティティ(社会的な私)がどのように形成されるかをもっともよく示したのが、1954年に行なわれた「ロバーズ・ケイヴ実験」だ。この話はこれまで何度か本に書いたことがあるが、これ以上説得力のある証拠(エビデンス)はないので、この機会にあらためて紹介しておきたい。

 オクラホマ州南東部にあるロバーズ・ケイヴ州立公園のボーイスカウトキャンプに、できるだけ等質になるように意図的に選抜された11歳の白人の少年たち22名が集められた。彼らはみなプロテスタントの家庭で育ち、IQも学業成績も平均かそれより上で、眼鏡をかける者や太っている者、問題を起こしたことのある者はいなかった。全員が地元出身でオクラホマ訛りがあったが、実験以前に面識がないよう異なる学校から選ばれていた。

 実験では、この少年たちが2グループに分かれて3週間のサマーキャンプに参加した。それは、「指導員」たちがじつは研究者で、少年たちの言動を内密に観察・調査していたことを除けば、ごくふつうのキャンプだった。

 「ラトラーズ」と「イーグルズ」(少年たちが自分たちで名づけた)の2つのグループは、別のバスで到着し、別のキャビンに宿泊したため、最初はお互いの存在を知らなかった。当初の計画では、最初の1週間で集団内行動を調査し、2週目で集団間競争に移行する予定だった。

 だが彼らが集団内の人間関係を気にしたのは、最初の数日だけだった。自分たちと同年齢の集団が遊んでいる声をたまたま耳にした瞬間、彼らは「あいつらを打ち負かす」ことに夢中になって、直接対決をしきりに望むようになったのだ。

 そしていよいよ、野球大会で両チームがはじめて顔を合わせたとき、ラトラーズは試合開始前に自分たちの旗を野球場に掲げ、野球場全体が「われわれのもの」であることを宣言した。試合はイーグルズの敗戦に終わったが、彼らはラトラーズの旗を引きずり降ろして燃やしてしまい、指導員は乱闘になるのを必死に止めなくてはならなかった。

 綱引きでは逆にイーグルズが勝ったが、その夜、ラトラーズは相手のキャビンを襲撃し、ベッドをひっくり返し、蚊帳を破り、盗んだ1本のジーンズを彼らの新しい旗にした。これに対するイーグルズの反撃はさらにヒートアップし、棍棒や野球のバットを持ってラトラーズのキャンプを昼間に襲撃し(その時間はキャビンには誰もいないはずだったので、「武器」は万が一のためのものだ)、自分たちのキャビンに戻ると、さらなる襲撃に備えて、靴下に石を詰めたり、投げつけるための小石をバケツいっぱい集めた。

 この実験で興味深いのは、彼らが無意識のうちに、自分たちを敵対する集団と正反対のキャラクターにしようとしたことだ。

 2回目の野球大会でイーグルズが勝利を収めたとき、彼らは帰り道で、今回はなぜ勝てたのかを話し合った。1人が、「試合前に神に祈りを捧げたからだ」といった(1950年代のオクラホマなのだ)。それを受けてもう1人が、「ラトラーズが負けたのは試合中、口汚い野次を連発していたからだ」と叫んだ。こうしてイーグルズでは、汚い言葉が禁止された。

 22人の少年たちは、誰もが同じような保守的なキリスト教徒の家庭で育った。その彼らが、2週間もたたないうちに、「罵声のグループ」と「祈りのグループ」にきれいに分かれてしまったのだ……。

キリストの墓とされる場所に建つエルサレムの聖墳墓教会。イエスの遺体が十字架から下された後に、横たえられて香油を塗ったとされる石に信者たちが触れようとする   (Photo:cAlt Invest Com)

 

「アイデンティティの複数性」が排外的な言動を抑圧する

 ヒトは社会的な動物で、集団から排除されれば1人では生きていけないのだから、アイデンティティというのは集団(共同体)への帰属意識のことだ。「私」は「奴ら」に対する「俺たち」の一部で、「敵」を生み出すのはひとがひとであるための条件ともいえる。ヒトが遠い祖先から受け継いだ遺伝的プログラムは、世界を内(俺たち)と外(奴ら)に分け、仲間同士の結束を高め、奴らを殺してなわばりを奪うことなのだ。

 この暗鬱な仮説は進化心理学のさまざまな実験によって繰り返し確認されている。ただし留保をつけると、ロバート・ケイヴ実験をはじめとして多くの心理実験は男性を対象としているか、男女の性差を考慮に入れていない。女性ももちろん共同体(グループ)をつくるが、近年になって「集団への帰属意識は男女で異なる」ことが指摘されるようになった。

 女性のグループは、男性のように明瞭なヒエラルキーをつくらない。男の子集団では誰がリーダーかすぐにわかるが、女の子集団のリーダーは時間をかけて観察しないと見つけられないし、リーダーの役割がはっきりしないことも多い。男の子は1対1の関係より集団対集団の対抗意識を重視するが、女の子はグループよりも「親友」との関係を大事にする。こうした男女のちがいはまだ完全には解明されていないものの、暴力的なアイデンティティ主義は人間の本性というよりも「男の本性」なのだろう。

 自由主義と共産主義のイデオロギー対立が消失した現代において、アイデンティティ主義が大きな問題を引き起こすようになった。このことに最初に気づいたのは、経済学者のアマルティア・センだ。

 インドのベンガル地方に生まれ、子どもの頃にインド独立にともなうヒンドゥー教徒とムスリムの暴動を体験したセンは、なぜ隣人たちがこんなに残酷になれるのかをずっと考えつづけた。独立後のインドは、ヒンドゥーのなかですらさまざまな「階級」に分かれてお互いのアイデンティティを主張するようになった。

[参考記事]
●インドのカースト制度は「人種差別」。カースト廃止を望まない被差別層もいる現実
 

インド、チェンナイ郊外のマハーバリプラムで遭遇したヒンドゥー教徒のパレード (Photo:cAlt Invest Com) 

 センは自身の考察をまとめた『アイデンティティと暴力』で、「世界に存在する多様な区分けが、優勢とされる一つの分類法に統一され、宗教や共同体、文化、国、あるいは文明といった観点(それぞれ戦争と平和に関する問題で独自の説得力をもつと見なされている)からのみ判断されると、われわれが共有する人間性は大きな試練にさらされる」と警告する。世界のおける多くの紛争や残虐行為は、「選択の余地のない唯一のアイデンティティ」という幻想から生まれるのだ。

 アメリカでは「グローバル資本主義を牛耳る知的エリート」に対抗する「白人労働者階級(ホワイト・ワーキングプア)」のアイデンティティが台頭し、ヨーロッパでは「原理主義的イスラーム」に対して「ギリシア・ローマ文明」「キリスト教」「ヨーロッパ系白人」のアイデンティティがはげしく対立している。東アジアにおいても「日本人」「中国人」「韓国人」のナショナル・アイデンティティが衝突を繰り返している。

 だが、たんにアイデンティティを否定すれば問題が解決するわけではない。共同体主義者(コミュニタリアン)が強く主張するように、愛情や友情など真に「善きもの」は共同体(親密な社会的関係性)からしかもたらされないからだ。

 「よいアイデンティティ」と「悪いアイデンティティ」を区別することは原理的に不可能だ。「日本人」としての誇りをもちつつ他国のひととも平等に接するひとと、「日本人」であることを根拠に排外的な主張をするひとの「日本人」性を分析し、そこになんらかのちがいを見つけようとしてもおそらく徒労に終わるだろう。

 だとしたら希望はどこにあるのか。センは、「アイデンティティの複数性」だという。

 グローバル企業で働き、中国人や韓国人の同僚と日常的に接していたり、中国企業・韓国企業と取引しているひとは、「反中」「嫌韓」の言動に接したときに、中国人・韓国人の友人のことを思い出して偏狭なナショナリズムに嫌悪感を抱くだろう。これは彼が、「日本人」とは別に「(グローバルな)ビジネスマン」としてのアイデンティティをもっているからだ。

 センは「キリスト教」対「イスラーム」、「西洋」対「反西洋」などさまざまなアイデンティティを検証し、それらがすべて幻想(社会的構築物)であることを示す。そのうえで、「単一帰属」というアイデンティティの暴力から逃れるために、複数のアイデンティティを受け入れることの重要性を説く。

 この議論はきわめて説得力があるが、それでも次のような単純な疑問が浮かぶ。はたして、誰もが複数のアイデンティティをもつことができるだろうか。

 複数のアイデンティティの象徴は、もちろんセン自身だ。「インド国籍」「ベンガル人」「イギリス居住者」「経済学者」「ケンブリッジ大学教授」「ノーベル経済学賞受賞者」などセンにはさまざまなアイデンティティがあり、だからこそ「単一アイデンティティ」を客観的な視点から批判することができる。

 しかしもちろん、私たちのような“ふつうのひと”がセンと同じ多様なアイデンティティをもてるわけではない。現代社会が抱える問題とは、先進国でも新興国でも「たったひとつのアイデンティティしかもてないひと」がますます増えていることだ。彼らのアイデンティティはきわめて脆弱で、だからこそそれを侵す(と感じられる)他者に激烈な反応を示す。

 残念なことにこの流れは変わりそうもないから、2018年も私たちは、アイデンティティ主義がもたらすさまざまな(不愉快な)出来事を目にすることになるだろう。

エルサレムのパレスナ人地区。自動小銃のオモチャと空に向けて遊ぶ子ども (Photo:cAlt Invest Com) 

 

橘 玲(たちばな あきら)

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 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)など。新刊『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)が好評発売中。

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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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