80年代から「オートキャンプ」に新たな価値を見出しながら、日本人の生活に自然との調和を広げてきたスノーピーク。創業地・新潟県燕三条から発信するアイテムは世界的にファンが多く、その経営方針や組織づくりにも注目が集まる。その原点や考え方を、山井太社長に聞いた。(聞き手/多田洋祐・ビズリーチ取締役キャリアカンパニー長)

シェア100%でも全人口の6%にしか届かない

多田 スノーピークが「オートキャンプ」の領域を切り拓いたのは、1986年に山井社長が入社されてからですね。それから30年ほど経って事業成長の伸び率も変わってきていますが、社長の中では「このタイミングで拡大しよう」といった覚悟は決められていたのでしょうか。

「アウトドア好きばかりが集まる」組織文化がスノーピークの好調を支える山井太・スノーピーク社長

山井 「自然指向のライフスタイルを提案し実現する」というミッションのもと、2010年頃まではキャンプ用品メーカー、アウトドア用品メーカーとして自分たちを捉えていました。その売り上げが30億円に達したとき、「将来、我々はどうやって事業展開をしていくのか」を社内でディスカッションしたんです。

 アウトドア好きをターゲットにしたメーカーとして成長していくならば、我々はその領域に限れば知名度もあり、ゆるやかに2017年くらいには50億円ほどの売上になるのでは、と読めました。

 一方で、キャンプ用品メーカー、アウトドア用品メーカーの枠にとどまらず、新たな価値提供ができる事業をしっかりとつくって、お客様と向き合っていく選択肢もあったのです。

多田 いま、御社が進んでいる方向ですね。

山井 ええ。調べてみると当時日本のキャンプ人口は800万人といわれ、全人口の6%程度なのです。言い換えれば、仮にシェアを100%にしても、日本人の6%にしか使ってもらえない。そうであれば、キャンプに親しむ人を増やす必要があるのではないか、と。

 非キャンパーの方々にも広がれば、我々の存在価値や存在意義は大きくなるのではと思いました。その想いから、2011年以降は非キャンパー向けの製品を含めて展開し、その後で株式上場もしました。キャンプだけではない提案をしていくと決意したのはそうした背景です。

多田 山井社長が先代から事業継承をされて30年近く経ちますが、消費者のキャンプへの見方は変わってきていると感じますか。

山井 そうですね。「以前」のキャンプ、たとえば学校で体験するキャンプなどは「生き抜くための学びの場」でした。食事も即席麺で済ませていたり、社会通念的には「貧しいもの」というイメージがありました。

 しかし、いまは、キャンプは「豊かなもの」に変わってきていると思っています。みなさんの趣味であり、人生をより楽しむ時間としてのキャンプの力を感じています。私も最初に道具をつくるまでは何も考えずにキャンプに触れていましたが、徐々にキャンプの持つ力の大きさを実感するようになっていきましたね。

多田 「最初に道具を」とおっしゃいましたが、元は金物問屋として創業し、登山家でもあった先代であるお父様が「本当に欲しいものを自分でつくる」という志のもと、登山用具を作ったことが、スノーピークブランドの礎になっていると伺いました。当時、山井社長に事業承継はどのように行われ、継ぐ側の気持ちはどのようなものでしたか。

山井 まず、生い立ちからお話しすると、私は高校生まで新潟県のこの燕三条で育ちました。新潟の中ではどちらかというと街の子ではあったものの、学校が終わると自転車で川へ行って、カジカを突き、薪を割る「野生派」でした。その後、大学から東京に行ったのですが、社会人を入れて8年半の間に、自分自身が人間性を失ってしまったと思い始めました。

 外資系商社への就職後は、ハードワークを続けましたが、もともと「野生派」の自然児でしたから、就職して2年目くらいで居心地の悪さを感じるようになりました。そんな折に、社会人3年目を迎えた私に父から電話がかかってきまして。急に「約束なんだから帰って来い」と突然言われたんです(笑)。