大正2(1913)年の創刊から現代まで、その時代の政治経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーには、日本経済の埋もれた近現代史が描かれている。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』をさかのぼりながら紐解き、日本経済史を逆引きしていく。

 高橋是清(1854-1936)は2度、窮地の日本経済を救った。今回は1度目、1927(昭和2)年の金融恐慌へ逆引きする。

蔵相就任わずか44日間で
金融恐慌を沈静化させた高橋是清の手腕

 1997年11月、山一証券、三洋証券、北海道拓殖銀行が次々に破綻し、日本は一挙に金融危機のクライマックスを迎えた。このころ、引き合いに出されたのが昭和2年の金融恐慌である。

 もちろん、法制度の仕組みや金融システムの強度など、違いは大きいのだが、70年ぶりに日本を襲った金融危機だったのである。高橋是清の施策についても研究が発掘され、経済史研究が重要であることが再認識されることにもなった。

 この昭和金融恐慌の経過と高橋是清蔵相による対処を時系列に並べてみよう。

1927(昭和2)年

・3月14日 衆議院予算総会で、震災手形(後述)の実態を示せと迫られた片岡直温蔵相は、「東京渡辺銀行が破綻」と失言してしまった。取り付け騒ぎ始まる
・3月15日 東京渡辺銀行、あかぢ貯蓄銀行が休業
・3月19日 中井銀行が休業
・3月22日 八十四銀行、中沢銀行、村井銀行、左右田銀行など8行が休業
・3月26日 台湾銀行が鈴木商店への新規融資を中止
・4月5日  鈴木商店が破綻
・4月17日 若槻礼次郎内閣総辞職
・4月18日 台湾銀行、近江銀行が休業。全国へ取り付け騒ぎが波及。日銀は無制限の貸し出しを行なう。この日の日銀貸し出しは2億8000万円
・4月20日 田中義一・政友会内閣が発足。高橋是清、蔵相へ就任
・4月21日 高橋蔵相、三井・三菱首脳へ22日、23日の臨時休業を要請、実施。「政府は徹底的救済の方策をとる」と発表
・4月22日 金融債務の3週間モラトリアム令を議会で可決させる
・4月24日 日曜日。高橋蔵相、日銀に対し、日銀の取引先以外の金融機関へも支援するよう要請、実施
・4月25日 週末の施策により、週明けのこの日、市場のパニックは沈静化
・4月28日 臨時閣議で日銀補償法案を決定
・5月1日  臨時閣議で台湾金融機関救済放散を決定
・5月8日  閣議決定を受けて、財界安定(金融システム安定化)のための3案(日銀特別融通及び損失補償法案、台湾の金融機関に関する法案、支払猶予令承諾案)が衆議院と貴族院で可決
・5月10日 閣議で日銀総裁として井上準之助を招聘と決定
・5月25日 大蔵省、専任銀行検査官の制度・官制を発表
・6月2日  高橋是清、蔵相を辞任