政治家は落選したら「ただの人」
国民の痛みを無視できない民主主義の限界

 民主主義の基本原理は多数決だ。国の政策は、多数決によって選ばれた政治家によって決められる。国会では、国民の代表者たる政治家の過半数が賛成する政策が採択され、過半数の賛同が得られない政策は採用されない。

 今ここに、1つの政策があるとする。その政策は国の将来にとって必要不可欠で、しかも長い間に国民に多くのメリットをもたらす。その一方、短期で見ると多くの国民にとって痛みを伴うものだとする。果たして国民は、その政策に賛成するだろうか?

 実際には、多くの国民が「ノー」という答えを出す可能性は高いだろう。おそらく国民の多くは、「今すぐに、大きな痛みを伴う政策を実行するのは避けたい。時間をかければ、きっと痛みを伴わない政策を思いつくはずだ」と主張する。

 そして、「国民の負担を最小限にする政策を考案するのが政府の役目だ」というだろう。その意味では、国民は時として、わがままで、ないものねだりをする存在なのである。

 それが現実の世界で起きることもある。そのため、時として、長い目で見ると避けて通れない政策が、痛みを伴うという理由で先送りされてしまうこともある。特に、その政策が一部の人たちに耐えられないような痛みを伴う場合は、なおさらだ。

 政治家は選挙で当選しなければならない。「猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちるとただの人以下になり下がることもある」と言われるほどだ。そのため、どうしても有権者に耳触りのよい政策を前面に押し出すことになる。いわゆるポピュリズムである。

 こうして政治がポピュリズムに走ると、国が危機的な状況になるまで、本当に必要な政策の実行が遅れることが考えられる。問題が深刻であればあるほど、国民は痛みを伴う解決策の実行を嫌う。結果として、ポピュリズムに走ったときの民主主義の政治体制では、経済的な危機の発生を止めることが難しくなる。