ニッコロ・マキアヴェリ 死後ほぼ5世紀にわたって、ニッコロ・マキアヴェリは人気がなかった。

 彼の天賦の才を認める少数の人が常にいるにはいたが、大部分の人が彼を陰謀や腹黒い行為と結びつけたので、「マキァヴェリアン」(Machiavellian)という語はほとんどすべてのヨーロッパ言語で、「権謀術数を駆使する」というような、良いマネジメントとは程遠い意味を持つようになった。

 幸いにもここ100年ほどで彼の著作も少しまともな見方がされるようになり、マキアヴェリ哲学の価値の大きさと近代社会への驚くべき有用性が次第に浮き彫りにされている。

人生と業績

 ニッコロ・マキアヴェリはフィレンツェの法律家の息子として1469年に生まれた。彼が公に知られるようになったのは、1498年、29歳で都市国家フィレンツェ運営のための複雑な官僚制度の一部である第二書記局の書記官に就任したときだった。彼が任命されたのは、サヴォナローラが処刑された後だった。サヴォナローラは施政修道僧で、争乱を率いてメディチ家を追放し民主的共和国を設立した後、ローマ教皇庁の怒りを買い異端として火刑に処されるまでフィレンツェを支配した人物である。

 マキアヴェリは書記官のポストに14年間在任し、その間の彼の影響力は顕著であった。彼は30回も外交使節に加わり、ヨーロッパの主要な政治家や支配者のほとんどと面会した。これは行政、政治、経済を学ぶめったにない機会だった。だが残念ながら、それは長くは続かなかった。1512年にメディチ家が復権するやいなや、マキアヴェリはポストを失ってしまった。

 さらに、まったく不当にもメディチ家に対して陰謀をたくらんだという疑念をかけられ、その容疑で逮捕拘禁され拷問にかけられた。やがて無実であることがわかるが、彼はフィレンツェから追放され、隔離された農場に流されて残りの人生を過ごすよう強いられた。彼は何度も政界に戻ろうとしたがその試みはすべて失敗し、失った影響力を取り戻そうともがきながら1527年に世を去った。マキアヴェリが望んだようにイタリアが統一を迎えたのは300年以上も後のことだった。

 マキアヴェリ自身は追放生活を楽しんでいなかったかもしれないが、われわれはその生活から計り知れない恩恵を受けた。何もすることがない生活に追いやられたために、彼は自身の経験や思想について驚異的なボリュームの作品を書き綴った。彼の著作には、フィレンツェの歴史や数編の戯曲や、彼を権力政治の偉大な権威たらしめた『君主論』(The Prince)や『ディスコルシ』(The Discourses)などがある。

 マックス・ラーナー教授は1950年のランダムハウス版『君主論』の序説の中で、この本を「権力の文典」と描写している。この画期的な作品をこれ以上うまく表現する言葉はないだろう。