支持者への「利益誘導」の重要性が高い日本政治では、歴史的に財務省(大蔵省)が持つ「予算編成権」が政治から常に狙われ続けてきた。古くは、鳩山一郎内閣(1954~56年)や池田勇人内閣(1960~64年)で予算編成権の内閣への移管が検討された。

「利益誘導」に批判的な「改革派」の政治家からも、予算編成権は常に狙われてきた(第73回)。例えば、90年代の「自社さ政権」は、「大蔵省解体」を政権の最重要課題と位置付けた。これは当時、不良債権問題処理の失敗やスキャンダルの噴出によって大蔵省に対する世論の批判が高まっており、連立与党の一角だった、民主党の前身である「新党さきがけ」が構想した。

 大蔵省を(1)金融部門を分離(金融庁)、(2)国税庁と厚生省の年金部門を合併(歳入庁)、(3)主計局を分離(予算庁)、(4)国有財産の管理(理財庁)に4分割するもので、当時、さきがけ政調会長であった菅直人氏(元首相)が主導した。ただし、この構想のうち、96年に発足した橋本龍太郎政権が実現したのは「財政・金融の分離」だけであった。

 これは、予算編成権を持つ大蔵省主計局の働きかけだったという見方がある。主計局は、当時スキャンダルや不良債権問題が噴出し批判に晒されていた金融部局を切り離すことで、その批判が主計局に飛び火して、予算編成権の移管問題が浮上することを防ごうとしたというのだ(前連載第41回)。

 その後も、政治による予算編成権を狙う動きは続いてきた。橋本政権で実現した「内閣の機能強化」によって内閣府が設置された。その中に設けられた「経済財政諮問会議」を経済財政政策の司令塔として用いたのが、小泉純一郎政権だった。

 小泉政権は諮問会議で「骨太の方針」という経済財政政策の基本骨格を作成した。そして、予算を獲得したければ、骨太の方針にその政策が含まれなければならなくなった(前連載第62回)。その結果、与党議員や各省庁が予算獲得のために、主計局よりも内閣府に向かうという流れができた。小泉政権は、主計局の予算編成権に、一定の制限をかけることに成功した。ただし、主計局もしたたかな動きを見せた。経済財政諮問会議にあえて積極的に関与することで、それを利用しながら、与党議員や各省庁の予算削減を実現しようとした。

 さらに、民主党政権の「国家戦略局」構想も、予算編成権の内閣移管を果たし、無駄な歳出の削減と大胆な予算の組み換えを目指した(前連載第54回)。しかし、2010年7月の参院選で大敗したことで「ねじれ国会」となり、国家戦略局設置のための法案を国会に提出することすらできなくなった。