橘玲の世界投資見聞録 2018年8月16日

ロシアへの併合で活気づく「係争地」クリミアは
クレジットカードもATMも使えなかった
[橘玲の世界投資見聞録]

「係争地」クリミアは経済制裁(sanction)の対象でクレジットカードもATMも使えなかった

 ホテルは思ったよりもずっと立派で、レセプションの女性はしっかりした英語を話した。その彼女は、ルームキーを用意すると、「タクシー代の4000ルーブルと宿泊費を合わせて9000ルーブルになります」といった(宿泊費は朝食付きで1泊約9000円)。そこでVISAのクレジットカードを出したのだが、「そのカードは使えません。キャッシュのみです」といわれたのだ。

 新興国で「カード不可」なのはよくあるが、いまのロシアはどちらかというとキャッスレス社会で、地下鉄の切符から自販機までカードが使える。すっかりそれに慣れていたので面食らったが、仕方がないので財布から現金を出して払った。

 レセプションの隣に旅行会社があり、カウンターに中年の女性が座っていた。チェックインの手続き終わると、翌日のツアーについて彼女に相談することにした。モスクワに戻る飛行機が午後5時発なので、それまで観光地を回りたいと思っていたのだ。

 旅行会社の女性は、英語ガイドといっしょに専用車でいくつか名所を訪ね、そのあと空港に行くというプランを立ててくれた。それでお願いすることにしたのだが、財布にある現金では足りない。そこで「近くにあるATMからルーブルをおろしてくる」というと、彼女は困った顔をして、「そのカードは使えません」という。私が怪訝な顔をすると、「サンクシションだから」と説明された。

 ここにいたってようやく、容易ならざる事態に陥っていることが理解できた。

 国際的に「係争地」とされているクリミアは経済制裁(sanction)の対象になっていて、国際SIMから携帯のローミング、VISAやMasterのようなクレジットカード、PlusやCirrusなどのATM連携サービスまで、あらゆる「国際的」なサービスが使えないようになっているのだ。

 外貨を両替してもらうことは可能だが、こんなことになるとは想像もしていなかったので、手元にあるのは日本円と人民元(上海トランジットのため)だけだ。親切な彼女はいくつかの銀行に電話してくれたのだが、どこも両替できるのは米ドルかユーロだけだという。

 10年ほど前にロシアを訪れたときは、なにがあるかわらないからと米ドルのキャッシュを用意していた。それをまったく使う機会がなかったので、すっかり油断していたのだ。

 それでもわざわざクリミアまで来たのだから、なにもせずにホテルに1泊して帰るのはあまりに馬鹿馬鹿しい。そこで財布の中の現金をすべてカウンターに並べ、今夜の食事代など1000ルーブル(約1700円)を除いて、「これでなんとかしてくれ」と頼んでみた。彼女はあれこれ計算していたが、その予算内で朝からのツアーと空港への送迎がなんとかできるという。――あとから考えると、かわいそうに思ったらしく、最初の「正規価格」から3割以上もまけてくれたようだ。

 その後、ホテルのスタッフやガイドの話でわかったのだが、ロシア国内の通信会社を使えば携帯での通話もネットもふつうにできるし、ロシアの銀行が発行したカードならATMからの現金引き出しもクレジット決済も可能だという。そのためロシア人の旅行者は、クリミアに来てもなんの不便も感じない。経済制裁によってヒドい目にあうのは、私のような「何も知らない」外国人旅行者だけなのだ。

 クリミアはワインの名産地としても知られていて、とりわけスパークリングと白ワインが有名だという。港沿いにはお洒落なレストランが並び、観光客が楽しそうに食事しているが、お金がないのではどうしようもない。けっきょく、ホテルの近くの雑貨店で黒ビール(300円)とピロシキ(150円)を買って夕食にした(貧乏旅行時代を思い出した)。

セバストポリの港にはお洒落なレストランが並んでいた  (Photo:ⒸAlt Invest Com) 

 

セバストポリ(クリミア)はロシアの愛国主義の象徴で
子どもたちのキャンプ地としても好まれている

 翌朝、ホテルにやってきたのはナターシャという60代の女性だった。サンクトペテルブルクの生まれだが、父親がソ連海軍の軍人で、6歳のときに家族でセバストポリに赴任したという。父親はたちまちこの街を気に入り永住の地に選んだので、それから60年ちかくずっとセバストポリに暮らしているという。父親は海軍の高官だったようで、キューバでカストロの軍事顧問をしていたこともあるという。

 ナターシャは軍人一家で、亡くなった夫も息子の一人も海軍だという。だがこれは珍しいことではなく、ソ連時代のセバストポリは黒海艦隊の基地のある閉鎖都市で、軍関係者以外は立ち入ることができなかった。

 冷戦終焉後、おそらくは夫が亡くなってからだろうが、セバストポリに観光客がやってくるようになると、ナターシャは得意の英語を活かしてガイドの仕事をするようになった。だが2014年にロシアがクリミアを併合して以来、外国人旅行者はほとんど訪れなくなり、英語を話すのは1年ぶりだという。初対面にもかかわらず個人的なことをいろいろ教えてくれたのは、気さくな性格だからだろうが、英語で会話できる機会がめったにないという理由もあるようだ。

 以下はそんなナターシャの説明から、私が理解したことだ。

 地図を見ればわかるように、セバストポリは深い入り江のある天然の良港で、1820年代にロシア海軍の拠点として要塞化された。黒海の軍事的要衝となったことで、クリミア戦争(1853~1856年)ではイギリス・フランス・オスマン帝国の連合軍が攻め込み、第二次世界大戦ではドイツ軍の猛攻撃を受けた。このふたつの戦争に耐えたことで、セバストポリ(クリミア)はロシアの愛国主義の象徴になった。

 セバストポリの近くには、古代ギリシアにまで歴史を遡るケルソネソスの遺跡がある。この古い港はビザンツ帝国の時代も黒海交易の要衝で、(ロシア人の祖先される)ルーシのキエフ大公国ウラジミール一世(聖ウラジミール)がキリスト教を国教と定めた際に洗礼を受けた場所でもある。ロシア帝国はビザンツ帝国の後継者で正教の守護者を任じていたから、ここはロシアの宗教的聖地でもあるのだ。

ケルソネソスに残された古代ギリシアの劇場    (Photo:ⒸAlt Invest Com) 
ビザンツ時代の正教の教会     (Photo:ⒸAlt Invest Com) 

 

 セバストポリはクリミア戦争と独ソ戦の激戦地で、この戦いで生命を落とした将軍・将兵の慰霊碑が至る所にある。そこでは軍人と思しきロシア人観光客が子ども連れで記念写真を撮り、軍人の新郎新婦が結婚式の記念撮影をしている。子どもたちの夏休みのキャンプ地にクリミアが好まれるのも、こうした理由があるからだろう。

クリミア戦争に参加した若き日のトルストイの記念碑 (Photo:ⒸAlt Invest Com) 
独ソ戦の激戦地後で写真撮影をした新婚カップル  (Photo:ⒸAlt Invest Com) 

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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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