橘玲の世界投資見聞録 2018年8月30日

2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させるという
野心的なプロジェクトはその後どうなったのか?
[橘玲の世界投資見聞録]

サックスが始めた「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」

 ジェフリー・サックスは、「絶対的な貧困を終わらせることは簡単(easy)」だという。だとすれば、これまで長年、貧困を改善しようとたたかってきた欧米の開発経済学者や貧困救済団体はいったいなにをしてきたのだろうか。

 「彼らは最初からやり方を間違えていたのだ。なぜなら“経済学的に無知(economically ignorant)”で“バカ(idiots)だから」

 サックスの理屈ではそうなるほかはないし、実際、巨大なエゴの持ち主で「傲慢」と忌み嫌われたサックスは“良心的”な貧困問題の専門家を面と向かって罵倒した。当然のことながら、主流派の開発経済学者との非難(というか罵詈雑言)の応酬が勃発した(ウィリアム・イースタリー『エコノミスト 南の貧困と闘う』)。

 サックスは、こうした「無理解」と戦うために、なんとしても「ビッグプッシュ理論」の正しさを証明する必要があった。そこで、持ち前の「プレゼンテーション能力」を発揮して慈善団体などから1億2000万ドル(約130億円)もの巨額の資金を集め、アフリカのもっとも貧しい地域にある10の村で大規模な実験を行なうことにした(最大の理解者はジョージ・ソロスで、サックスのプロジェクトに5000万ドルを出資した)。1日の生活費が2ドル以下で暮らすひとたちの村に、1カ所あたり10億円を超える投資をするのだから、まさに「ビッグプッシュ」だ。サックスはこれを、国連のミレニアム・プロジェクトにちなんで「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト(Millennium Village Project:MVP)」と名づけた。

 

サックスに魅せられた高学歴で純真な「信者」たち

 エチオピア、ウガンダ、ケニア、タンザニア、マラウィ、ルワンダ、ナイジェリア、ガーナ、マリ、セネガルにつくられたサックスのミレニアム・ヴィレッジのなかから、ジャーナリストのニナ・ムンクは、ケニア北東部でソマリアとの国境近くにあるダートゥ(Dertu)と、ウガンダ南西部の高地にあるルヒーラ(Ruhiira)という村を定点観測に選んだ。

 ダートゥの現地責任者はアーメド・マリ-ム・ムハンマドという40代のソマリ人で、大半のソマリ人と同じくラクダの群れとともに移動する遊牧民の子どもとして生まれたが、幸運にも(もちろん本人の努力もあって)高等教育を受けることができ、国内の農業大学で学位を、留学したベルギーの大学で「乾燥地帯の自然資源の管理」の博士号を取得した。

 ケニアに帰国すれば高級官僚の道が約束されているアーメドが選んだのは、サックスのミレニアム・ヴィレッジだった。自分が幼い頃に経験し、いまも多くの同胞たちが苦しんでいる貧困を終わらせることができるという「偉大なる博士の理想(the Great Professor’s Ideas)」の魅力はそれほど強烈だったのだ。

 ルヒーラの現地責任者は30代半ばのデイヴィッド・シリリで、ウガンダ独立(1962年)後に数学教師の父親と病院の助産婦の母親という新興中流階級の家庭に生まれた。だが幸福な日々はイディ・アミンの独裁によって終わり、社会秩序の混乱と崩壊のなかデイヴィッドの両親は家を捨てて逃れるほかなかった。

 アミンの失脚(1979年)によってその蛮行が欧米で広く知られるようになると、社会福祉団体などからの支援金が送られてくるようになった。デイヴィッドは幸運にもその資金を得て学校に復帰し、10万人の応募者に合格者2000人という難関を突破してウガンダ国立大学に入学、イギリスの大学に留学して農業・森林学の博士号を取得した。その直後にミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトに参加したのはアーメドと同じだ。

 サックスは2002年にハーバードからコロンビアに移籍していた(コロンビア大学は有名教授であるサックスを招聘するために800万ドル(約9億円)でニューヨーク・マンハッタンに庭付きタウンハウスを用意した)。ミレニア・ビレッジ・プロジェクトの本拠はコロンビア大学内に置かれ、アーメドやデイヴィッドのようなアフリカ生まれの優秀な若者がそれぞれの村の責任者として派遣された。

 彼らは、サックスの「貧困救済教」というカルト宗教に魅せられた高学歴で純真な「信者」たちだった。

アフリカ・マダガスカル       (Photo:ⒸAlt Invest Com) 

ミレニアム・ヴィレッジの苦闘

 サックスは、2006~11年の5年間の「ビッグプッシュ」でミレニアム・ヴィレッジは自立したゆたかな村に変貌すると豪語した。その成功にもとづいて、同じプロジェクトを世界じゅうに広げれば、2025年までに人類の貧困は終焉するのだ。現地責任者であるアーメドやデイヴィッドに与えられた使命は、巨額の資金を有効活用して医療・教育・農業・産業振興のためのインフラを整備することだった。

 彼らの苦闘がニナ・ムンクの『アイデアリスト』の読みどころなのだが、そのすべてを紹介することはできないので、ここでは経緯のみをかんたんにまとめておこう。

 アーメドが担当したダートゥは国家としてはケニアに属しているがもとはソマリ人の遊牧地だった。サックスが集めた資金で病院や学校などを整備したことで街の人口は急速に増え、藁ぶき屋根は真新しいトタン屋根になり、雑貨店やレストランもできて、近隣のなかでももっとも繁栄する村に生まれ変わった。だが問題は、ひとびとを養う産業が存在しないことだった。

 遊牧民にとってはより多くのラクダを保有することがステイタスで、労働は卑しむべきこととされ、農業はもちろん建築などの仕事に従事させることも論外だった。こうしてダートゥは、慈善団体の資金に依存する難民キャンプの様相を呈してきた。村に集まってきた元遊牧民たちは、日がな一日木陰で噂話に興じ、アーメドたちに苦情をいった(支援金で1人1軒の家を建て、国連事務総長が村を訪問し、灌漑のために川の流れを変えるように要求されてアーメドは困惑した)。住民が考えるのは多くの支援金を得ることだけで、世帯単位で食料を配給すると複数の家を登録する者が次々と現われた。

 アーメドは、遊牧民である村人が自立するにはラクダの取引市場をつくるしかないと考えた。2007年夏に行なわれた取引所の開設式にはサックスも参加し、欧米のメディアでも紹介された。これがアーメドにとってもっとも成功した瞬間だったが、それは長くは続かなった。ダートゥは地域の中心から大きく外れており、遊牧民にとってはそこでラクダを売買することになんの魅力もなかったのだ。

 一方、デイヴィッドの担当するウガンダのルヒーラは貧しい農民たちの村で、化学肥料や高収量の種子を無償配布することで収穫を大きく増やすことができた。これは大きな成果として喧伝されたが、デイヴィッドもやはり問題を抱えていた。

 ひとつは水の確保だった。高地にあるルヒーラでは、ひとびとは水を得るためにはるか下の谷まで降りていかなくてはならず、その重労働で1日が終わってしまった。谷から農業用水を安定して汲み上げるには長大なパイプと強力なポンプ、じゅうぶんな燃料がなくてはならない。それは大事業であり、それ以外にも学校や病院などを建設しなくてはならないのだから、村の事業予算を大幅に超えてしまうのだ。

 それでもサックスは、アメリカのパイプ・メーカーと交渉して無償で灌漑のための大量のパイプの提供と、設置に必要な技術者の派遣を同意させた。だが、このパイプをアメリカからウガンダまで船で輸送し、そこから僻地にあるルヒーラに運ぶ方法が問題になった。大型トラックもハイウェイもなく、どのような見積もりでも輸送コストがパイプそのものと同じくらいかかってしまうのだ。

 さらなる難題は、ウガンダの既成のパイプがイギリス仕様なのに対し、提供されるパイプはアメリカ仕様だったことだ。両者を接続するには、いちいちコンバーターをつけなくてはならない。

 このやっかいな事態に対してニューヨークの優秀なスタッフが編み出した解決策は、思いがけないものだった。そもそも、水を汲み上げるのにパイプやポンプが必要不可欠だと思うことが間違っているのだ。現地では伝統的に、悪路の物資の運搬にロバを使っている。だとしたら、なぜ水の運搬にロバを使ってはならないのか。

 こうしてデイヴィッドのところには、大規模な灌漑施設の代わりに8頭のロバが届けられた。

 もうひとつの問題は、このジョークのような話よりずっと深刻だった。トウモロコシの収穫が倍に増えたのはいいが、僻地でマーケットもないため、それを販売する方法がないのだ。その結果、近隣のトウモロコシ価格は暴落し、農民は売却をしぶって自宅や周辺の敷地に積み上げた。農産物を保管する倉庫がないので仕方がないのだが、ネズミが大発生して大半を処分するほかなくなった。

 これを解決するには大規模な保管倉庫をつくるだけでなく、収穫物を都市に運ぶ道路・トラックなどの交通インフラや農産物の取引市場が必要だった。いずれもデイヴィッドに与えられた予算と権限ではどうしようもないことだった。

アフリカ・マダガスカル        (Photo:ⒸAlt Invest Com) 

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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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