橘玲の世界投資見聞録 2018年10月25日

黒海周辺を舞台にした
古代ギリシアからビザンツ帝国にいたる興亡の歴史
[橘玲の世界投資見聞録]

7世紀から約300年にわたって黒海沿岸を支配したハザール人の物語

 中世の黒海の歴史で興味深いのは、7世紀から10世紀までの約300年間にわたって北岸と東岸を支配したハザール人の物語だ。

 ハザール人の出自は定かではないが、その領土はコーカサス山脈の北の平原にあり、黒海とカスピ海両方に接していたとされる。ハザール人はペルシア人やアラブ人にとって伝説上の存在で、古来、侵攻の数々は彼らの仕業とされ、スキタイやサマルタイのように時としてコーカサス北側のあらゆる民族の通称として用いられた。

 あるハザールの可汗(君主)はスペイン人に送った書簡で、彼の民はノアの息子の一人ヤペテの子孫であると述べているが、実際にはテュルク(トルコ)系であったと考えられ、ビザンツではしばしば「トゥルコイ」と呼ばれていた。ステップのテュルク系諸民族に近い言語を話していたようだ。

 ハザールはヴォルガ川からクリミアに至る領域を支配し、カスピ海と黒海を結ぶルートを開いたことで、中央アジアと西方の交易の中継者として力を蓄え繁栄した。ヴォルガ川とドン川沿いのハザール諸都市は、ヨーロッパとユーラシアの商人が塩・蝋・毛皮・蜂蜜・奴隷などを交換する重要な商業拠点だった。10世紀初頭にハザールの領土を訪れたアラブの旅行家は、交易を行なうためバルト海からはるばる川を下ってやってきた、刺青をしたノース人の一団と出会っている。

 695年、ローマ皇帝ユスティニアノス二世は帝位を主張する敵対者によって皇帝の座を逐われたうえ、鼻を削がれ、当時ハザールの勢力下にあったクリミア半島のケルソネソスに流刑された。しかしユスティニアノスはその流刑地で再起をはかり、削がれた鼻の代わりに黄金製の付け鼻をつけ、庇護者であったハザールの可汗の妹を娶り、その持参金としてファナゴリアの街の支配権を得た。こうしてちからを蓄えたユスティニアノスは、ついには705年に簒奪者から帝位をもぎ取ることに成功する。洗礼を受けキリスト教徒となったハザール人の妻テオドラは、ビザンツにおける最初の外国人の皇后となった。だが復位したユスティニアノスは異常に猜疑心が強くなり、側近を次々と粛清したことで政治は混乱し、最後はハザール人の支援を受けた反乱軍にコンスタンティノープルを奪われ、逃亡先の小アジアで殺された。

 ハザールについては、以下のような興味深い話が伝わっている。

 そのむかし、正式な宗教教育を受けることを望んだハザールのブラン可汗が、ビザンツ、アラブ、ユダヤから学識のある人物を招き、それぞれの信仰がいかなる点で優れているかを討論させた。ところが議論は怒鳴り合いの口喧嘩になり、苛立ったブランは、キリスト教とイスラームの賢者に、自分の宗教を除く他の2つから選ばねばならないとしたらどちらがましかを訊ねた。すると両者はやむを得ず「ユダヤ教」と答えたため、ハザールの民は国をあげてユダヤ教に改宗することし、ブラン可汗はその証として自ら割礼を受けた……。

 この物語の典拠は当然ながらあやしいが、ハザールが700年代中盤のどこかでユダヤ教を受容したことは事実らしい。改宗の知らせは、コンスタンティノープルやバグダードから、ハザールの貴族に信仰を説くためにユダヤの学者たちをハザールの国に呼び寄せた。

 この新たなユーラシアのユダヤ教帝国は中世初期には広く知れわたるところとなり、キリスト教徒の冒険者たちを東方へと駆り立てた「プレスター・ジョンの伝説」の先駆けとなった。この伝説では、異端とされたネストリウス派キリスト教の司祭がアジアあるいはアフリカにキリスト教徒の王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたとされる。

 ハザールの帝国は数世紀のちにほとんど物理的な痕跡も残さず姿を消してしまったが、その記憶は生きつづけ、カスピ海はアラビア語では「バフル・アル・ハザル」、テュルク語では「ハゼル・デニズィ」すなわち「ハザールの海」と名づけられ、中世の地中海の船乗りたちはクリミア半島を「ガザリア(ハザールの地)」と呼んでいた。

 故郷を失ったハザール人たちは流浪の民となり、ユダヤ教の教えを守りながらも北方ではスラヴ系と、西方(東欧)ではヨーロッパ系と交わった。この流浪の民がアシュケナージと呼ばれる東欧系ユダヤ人の祖先ではないかといわれている。

 ハザールの衰亡は、森深い北部と河川沿いのステップ地方にいたルーシの諸公国に圧迫されたためだった。900年代後半には、ルーシはコーカサス北部の主要なハザールの要塞を征圧し、アゾフ海周辺からハザールの勢力を追いやった。

 ルーシの起源も諸説あるが、北欧から交易のために川を下ってきたノース人が土着のスラヴ人と交じり合い、スラヴ系の言語や習慣を受容していったのではないかとされている。ビザンツの歴史家たちは、北方の強大化する国家を「ロソイ」すなわち「ロシア」と呼んだ。

 ルーシ諸侯が治める都市のなかでもっとも強大なのがキエフで、ドニエプル川通商路の中継地として繁栄した。中世においては、現在のウクライナが「ロシア」だったのだ。

ウクライナ・キエフの聖ウラジミール教会     (Photo:ⒸAlt Invest Com)

 

参考文献:チャールズ・キング『黒海の歴史 ユーラシア地政学の要諦における文明世界』(明石書店)
 

 

橘 玲(たちばな あきら)

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 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。

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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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