橘玲の世界投資見聞録 2018年11月8日

映画『否定と肯定』でわかった
ホロコースト否定論者と戦うことの難しさ
[橘玲の世界投資見聞録]

ユダヤ人の虐殺はヒトラーの知らないところで行なわれたと主張するアーヴィング

 リップシュタットと対立するデイヴィッド・アーヴィングはイギリスの歴史家で、1963年に25歳で発表した『ドレスデンの破壊』で高い評価を得た。この本でアーヴィングは、連合国を善、ナチスドイツを悪とする戦後の歴史観に異を唱え、ドレスデン市街を灰燼に帰し多数の市民が犠牲になった(死亡者数は2万5000人から15万人まで幅がある)連合国の戦争行為を強く批判している。その後、1977年の『ヒトラーの戦争』(早川文庫NF)ではヒトラーの「悪魔化」に異を唱え、ヒトラーがホロコーストを命じた文書が存在しないことから、ユダヤ人の虐殺はヒトラーの知らないところで行なわれたと主張して大論争を巻き起こした。

 ここまでなら毀誉褒貶はあるものの、アーヴィングは通説に異を唱える修正主義者であり、一般読者だけでなく歴史家のあいだでも高く評価する声があった。しかしその後、「ヒトラーはホロコーストを知らなかった」という主張は「ホロコーストはなかった」に変わっていく。

 ただしリップシュタットは、『ホロコーストの真実』のなかでアーヴィングを代表的な否定論者として扱っているわけではない。アーヴィングが出てくるのは数カ所で、たとえばこんな感じだ。

 「ナチ総統の熱烈な崇拝者であるアービングは、机の上にヒトラーの肖像画を飾り、ヒトラー山荘の訪問を聖地巡礼と称し、ヒトラーは繰り返しユダヤ人に救いの手を差しのべた、と主張した。

 1981年、“穏健ファシスト”を自称するアービングは、将来イギリスの指導者になるとの信念にもとづき、自分で右翼政党をつくった。イギリスがナチスドイツに戦争を仕掛ける愚を犯したため、転落の一途をたどっていると確信する超国家主義者であり、英独間の戦争をストップしようとした行為により、ルドルフ・ヘスにノーベル平和賞を与えるべしと提唱する男である。ヒトラー遺産の継承者をもって自任しているふしもある」

 それぞれの指摘には出典も示されているが、アーヴィングはこれを重大な名誉棄損と考え、イギリスの裁判所にリップシュタットを訴えた。アメリカでは、名誉棄損の立証責任が原告側にあるが、イギリスでは逆に被告側が原告の主張は事実無根だと証明しなければならない。こうしてリップシュタットは困難な裁判に巻き込まれていくことになる。

 アーヴィングはけっきょくこの訴訟に負けるのだが、それでも大きな威嚇効果をもったことは間違いない。

 裁判が始まったのが2000年1月、判決が言い渡されたのが同年4月11日だから裁判そのものは迅速に行なわれたものの、リップシュタットのもとに訴状が届いたのが1996年9月で、法廷に出るまでの準備に3年4カ月が費やされている。

 リップシュタット側の事務弁護士はダイアナ妃の離婚を担当した著名なアンソニー・ジュリアスで、ノーベル文学賞を受賞した詩人T.S.エリオットの反ユダヤ主義についての著作もあり、自ら無償で弁護を買って出た。だがその後、裁判が「ホロコーストの嘘」を全面的に法廷で争うという前代未聞のものになるにつれ、専門家やリサーチ担当者、その他のスタッフへの支払いが必要になり、費用を請求しなければ弁護団を維持できなくなった。「特別料金」で大幅に値引きされたものの、リップシュタットに届いた第一回の請求金額は160万ドル(約1億8000万円)だった。

 この裁判費用はアメリカのユダヤ団体などが負担したが、誰もがこうした支援を受けられるわけではない。それに対してアーヴィングは、「自分以上に自分を弁護できる者はいない」という理由で弁護士を雇わず本人が法廷に立った。イギリスの名誉棄損裁判では、原告は立証責任を負う被告の質問に答えればいいので、こうしたことも可能なのだ。そのためリップシュタット側から協力を求められたホロコーストの専門家のなかには、アーヴィングからの訴訟を懸念して協力を断る者もいたという。

映画には原作本にはない演出がある

 映画『否定と肯定』は、原告であるアーヴィングを演じたティモシー・スポール(『ターナー、光に愛を求めて』で第67回カンヌ国際映画祭・男優賞)の名演もあって、ホロコースト否定をめぐる“世紀の裁判”が緊迫感をもって描かれている。だがそこで気になったのは、制作側の演出だ。

 映画の冒頭、リップシュタットがホロコーストについて講演している場にアーヴィングが現われ、「議論もしないで否定論者を侮辱するのか」と会場から大声で抗議し、宣戦布告する場面がある。予告編にも使われている印象的なシーンだが、原作を読むとこのような事実はない。リップシュタットがアーヴィングにはじめて会ったのはロンドンの法廷だ。

 もちろん娯楽映画なのだから、多少の演出が必要なのは理解できる。冒頭に敵役のアーヴィングを登場させなければ、そもそも物語が始まらない。それに加えてこの映画は、最初から大きな制約を課せられていた。

 裁判ものの定石として、そのクライマックスは「正義」のリップシュタットと「悪」のアーヴィングの法廷での対決シーンだと誰もが思うだろうが、この作品ではそれが禁じられている。アーヴィングは法廷で自説を開陳するために、自分で自分を弁護する本人訴訟を選んだ。そのアーヴィングとリップシュタットが法廷で議論するようなことになれば、まさに「否定と肯定」の図式で、相手の思うつぼにはまるだけだ。そのため弁護側は最初から、リップシュッタットは法廷には出るもののいっさい発言しないことに決めていた。

 法廷戦術としてこれは当然だが、そのため法廷場面をドラマティックに演出するのがきわめて難しくなってしまった。娯楽作品にするためには、ドラマは裁判外の出来事でつくるしかないのだ。

 イギリスの裁判では、裁判前に原告と被告が必要な証拠を開示することになっている。アーヴィングは1500件近い膨大な開示リストを提出したが、そこには娘の誕生を録画したビデオなど、事件とはなんの関係もないものも含まれていた。弁護側はそうした開示資料をすべて精査しなければならないが、それに加えて必要な証拠を請求することもできる。

 リップシュタット側は、書簡とともに個人的な日記の閲覧も請求した。アーヴィングは抵抗したものの、裁判所が認めたため、プライベートな記録を弁護側に開示せざるを得なくなった。

 こうして映画では、弁護士事務所の若いスタッフがアーヴィングの自宅を訪れ、日記を「押収」する。私はこの場面を見て、イギリスではほんとうにこんなことが行なわれているのか驚いたのだが、原作の『否定と肯定』を読むとこれも演出だ。アーヴィングは、裁判所の決定に従って自主的に日記を提供している。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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