橘玲の世界投資見聞録 2018年11月8日

映画『否定と肯定』でわかった
ホロコースト否定論者と戦うことの難しさ
[橘玲の世界投資見聞録]

“実話”を謳う映画が演出ばかりでは主題までもフェイクと言われかねない

 映画『否定と肯定』では、アウシュヴィッツの生存者(サバイバー)である老女が裁判の傍聴に来ていて、腕に刺青された番号を見せて「自分に証言させてほしい」と迫る場面がある。

 リップシュタットは弁護士たちに「生存者を証人に呼ぶべきだ」と力説するが、アーヴィングを利するだけだと一蹴される。著名な否定論者の一人であるドイツの出版業者エルンスト・ツンデルの裁判ですでに生存者との対決が行なわれており、裁判官が止めないのをいいことに、被告側は証人がほとんど知らない細々とした質問をして好きなようにいたぶっている。生存者を法廷に立たせたら、アーヴィングは嬉々として同じことをするだろう、というのだ。

 リップシュタットの正義感と挫折を描く印象的な場面だが、じつはこれも演出で、ホロコーストの専門家である彼女は、当然のことながら否定論者の“蛮行”を知っており、弁護側の方針として、生存者には証言させないことがあらかじめ決まっていた。そのうえこれは、ガス室があったかどうかの裁判だから、一般の生存者には証言することができない。――ガス室を見た者は、ゾンダーコマンドという特殊作業員のわずかな生き残りを除いて、みんな死んでいるのだ。

 もちろん、映画のすべてが演出というわけではない。

 裁判の初日が終わったとき、リップシュタットは法廷を出たところで小柄な老婦人に腕をつかまれた。彼女は片腕を突き出し、袖を肘までまくりあげ、前腕に刺青をされた数字を指さしていった。
「あなたはわたしたちのために戦ってくれている。わたしたちの証人よ」

 リップシュタットはこの言葉を、激励だけでなく警告とも受け取った。“勇気を出してがんばって。でも、何をするにしても、わたしたちを落胆させないで”。

 この実話でもじゅうぶん印象的だと思うのだが、娯楽映画にする以上、やはりさらなる演出が必要だったようだ。

 誤解のないようにいっておくと、私は「実話に基づいた映画」が演出を加えてはならないといっているのではない。だがやはり気になるのは、『否定と肯定』がフェイクをテーマにしているからだ。

 リップシュタットが弁護士たちとともにアウシュヴィッツを訪れ、ヘブライ語で追悼の祈りを唱える印象的な場面は実話だが、それ以外は、冒頭のアーヴィングからの宣戦布告も、アーヴィングの自宅に日記を「押収」に行くことも、サバイバーから証言を迫られる場面も、法廷外の記憶の残るシーンの多くは演出だ。これは事実ではないのだから、すなわち「フェイク」ということになる。

 もちろん制作者は、法廷場面には手を加えていないというだろう。実際、アーヴィングと法廷弁護士であるリチャード・ランプトン(イギリスでは事務弁護士と、法廷に立つ弁護士が分かれている)のやりとりはリップシュタットの原作に書かれているとおりだ。法廷外の出来事まで事実しか描けないのなら、娯楽映画ではなくドキュメンタリーになってしまうし、それでは多くのひとに観てもらえないというのもその通りだろう。

 だが否定論者は、この映画に対して次のようにいわないだろうか。

 「あれも演出、これも演出、“実話”をうたっているがウソばかりだ。当然、リップシュタットが裁判で勝ったというのも演出だ」

 この主張には一部の事実(ファクト)が含まれている。そして「陰謀」は、こうした事実の上につくられていくのだ。

アウシュヴィッツ強制収容所のゲート。「アルバイト・マハト・フライ(労働は自由にする)」の標語が掲げられている   (Photo:ⒸAlt Invest Com)

 

映画では描かれていない原作本の印象的な場面

 原作の『否定と肯定』には、映画では描かれていない印象的な場面がある。

 身体に障がいを持つアーヴィングの娘が、裁判の2、3カ月前に38歳で亡くなった。新聞には自殺と出ていた。葬儀のあとで家族のもとに白薔薇と百合の豪華な花束が届いた。添えられたカードに、“まことに慈悲深き死”と書かれ、“フィリップ・ボウラーと友人たち”という署名が入っていた。ボウラーは、心身に障がいのあるドイツ人を安楽死させる計画の監督を任せられていたナチスの医師の名前だ――。

 アーヴィングは、リップシュタットの著書によって被った影響として法廷でこの話をし、自分こそがユダヤ社会から憎悪を向けられた被害者だと訴えた。それを聞いてリップシュタットは、添え状の件はあまりに出来すぎていて、アーヴィングのつくり話ではないかと疑う。

 だがその直後、実の娘を悲劇的な状況で亡くしたばかりの相手をそんなふうに思う自分にやましさも感じる。そして、アーヴィングへの怒りが憎悪に変わるのを抑える努力をしなければならないと思う。被害者が加害者に憎悪を向けるのは当然だが、多くの場合、それはかえって被害者を苦しめることになる。加害者は被害者のことなどまったく気にしていないからだ。

 これは「加害と被害の非対称性」を考える重要な場面だと思うが、うまく映像化はできなかったようだ。

 映画に出てこないスリリングな出来事としては、イスラエル政府から「門外不出」とされていたアドルフ・アイヒマンの手記を入手する場面がある。

 親衛隊中佐としてユダヤ人の強制収容所への大量移送を指揮し、戦後はアルゼンチンに逃れたアイヒマンはイスラエルの諜報機関モサドによって拘束され、エルサレムで裁判にかけられる。これが世界の注目を集めた「アイヒマン裁判」だが、死刑に処せられる前にアイヒマンは独房で手記を書いていた。

 裁判後、イスラエル政府は、アイヒマンの証言が裁判記録としてすべて残されているのだから、これ以上その主張を公表する義務はないとして手記を封印した。そのため関係者以外は誰も読んだことがなかったのだが、たまたまリップシュタットの友人夫妻と3人の子どもがロンドンを訪れていて、アイヒマンの手記が証拠になるかもしれないという話を聞いた子どもの一人が、「イスラエルに手記の閲覧を申請すればいいんじゃないの」といった。驚いたことに、これまで誰もそれを試した人間はいなかった。

 そこでリップシュタットが、知人の伝手を使って、裁判の証拠として請求したところ、イスラエル政府から手記が送られてきたのだ。

 これほどドラマに相応しい話はないと思うのだが、残念なことに、リップシュタットの原作にも、アイヒマンの手記になにが書かれていたのかは出てこない。これはイスラエル政府から、手記の利用は裁判目的に限るとされたからのようで、そのため映画にも使えなかったのかもしれない。なおアーヴィングは、裁判の当事者としてこの貴重な手記を入手している。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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