標的となった拓銀と私
1997年、北海道拓殖銀行は経営破綻した。
その「最後の頭取」となった著者は、
現在話題となっている日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告と同じ
「特別背任罪」で実刑判決を受け、1年7ヵ月を刑務所で過ごした。
大手銀行の経営トップで収監された例は、他にない。
バブル経済の生成と崩壊を実体験した生き証人は、いま84歳。後世に伝え
るバブルの教訓をすべて明かす。

日本金融史上最大の破綻

 1997年11月17日、北海道拓殖銀行(以下、拓銀)は、巨額の不良債権を抱えて経営破綻しました。
 13代目頭取の私は、図らずも「最後の頭取」となりました。

 道内では「たくぎん」、道外では「ほくたく」。こんな略称で呼ばれていた拓銀は、1900年に「北海道拓殖銀行法」という特別法に基づいて設立された“国策銀行”でした。
 未開の地だった北海道を開拓する長期資金を供給する狙いで、政府も出資。戦前や戦中は、北海道庁とともに北海道の開発を牽引しました。

 日本の領土だった樺太にも支店を有する唯一の銀行でもありました。戦後は普通銀行へと転換。
 北海道のリーディングバンクとして、道内経済を支える“金庫番”を長らく担いました。
 破綻当時の預金総額は、約5兆9000億円、公表不良債権は9349億円。
 都市銀行の経営破綻は国内初で、当時としては日本金融史上最大の破綻でした。

何もしなくても
不良債権額がどんどん増えていく

 何もなければ、3年後に創立100周年を祝うはずでした。
 破綻当時、約5200人いた行員やその家族、多くの融資先や取引先に多大な迷惑をかけてしまったことは、今も申し訳なく思っています。

 破綻に追い込まれた要因は一つではありませんが、最も大きかったのはバブル経済の崩壊です。
 拓銀は、1955年から全国規模でビジネスを展開する都市銀行として業務を展開していました。
 とはいえ、13行あった都銀のなかでは、業容や収益力はいつも最下位。
 道外や海外では知名度も低かったのです。
 地方銀行の横浜銀行にも業容で抜かれていましたが、都銀としてのプライドはなかなか捨てきれませんでした。

 日経平均株価が3万8915円87銭の過去最高値をつけた1989年、山内宏氏が拓銀頭取に就任。
 その翌年、「たくぎん21世紀ビジョン」という新構想を打ち立て、株式や不動産のバブルを取り込もうとしましたが、時すでに遅し。
 首都圏や関西圏のみならず、道内でもバブルは崩壊の過程に入り始めていたのです。
 このビジョンに盛り込まれたインキュベーター(新興企業育成)路線によって不動産やリゾート産業への融資に過度に傾斜し、のちに破綻の傷口を広げることになりました。

 私が山内氏から頭取をバトンタッチされたのは、1994年でした。
 バブル崩壊の影響が、多くの産業や金融界にも目に見えて出始めた頃です。
 株価が下がって株の含み益は吹っ飛び、貸し出しの担保である不動産の価格もどんどん下がっていました。

 何もしなくても、不良債権額がどんどん増えていく。
 まさに「悪夢」のような状態でした。
 マスコミ報道で「危ない銀行」と名指しされ、拓銀のイメージは急速に悪化しました。
 大量の預金が流出して資金繰りが厳しくなり、破綻の時期が早まることになったのです。

大手銀行のトップで
刑務所に入ったのは私だけ

 破綻から1年たった1998年11月、拓銀の道内の営業は北洋銀行に、道外の営業は中央信託銀行(現・三井住友信託銀行)にそれぞれ譲渡されました。
 その4ヵ月後、私は北海道警察に商法の特別背任罪の疑いで逮捕されました。

 バブル崩壊後、多くの破綻した金融機関の経営トップが、不正融資や不良貸し付けにからんで相次いで刑事責任を問われました。
 1995年の東京協和信用組合、安全信用組合に始まり、2003年までの8年間でトップたちが逮捕された金融機関は30を超えました。
 私も、その1人となったのです。

 リゾート開発グループ向けの追加融資について「回収の見込みがないのに、自己の保身を目的に融資を続けた」とされました。
 法廷で、私は一貫して無罪を主張しました。
 すべての融資は、銀行の損失を最小化するための経営判断として行ったことであり、自己保身という意識はかけらもなかったからです。

 しかしながら、最高裁で有罪が確定。2009年から約1年7ヵ月間、刑務所で服役しました。
 刑事責任を問われた金融機関のトップの大半は執行猶予がついたり、無罪になったりしており、大手銀行のトップで刑務所に収監されたのは結局、私ひとりです。

次回へ続く