驚愕し、狼狽した「奇跡の歌声」

 ちょうど20年前に帝国劇場で本田美奈子さんの歌(「ミス・サイゴン」)を初めて聞いたとき、感動ではなく驚愕し、狼狽した。ようするに、ひどくうろたえたのである。どう表現していいかわからなかったのだが、つい先日、図書館で70年代の本を読んでいて当時の自分の狼狽を理解できた。

 手に取った書物は、平間文寿『歌の渚』(栄光出版社、1977)である。声楽家(テノール)平間文寿さんのエッセイ集だ。明治33(1900)年生まれの著者は、東京音楽学校を卒業後、徴兵されて仙台で軍隊生活を送っているときに三浦環(1884-1946)のリサイタルへ行く。欧米で「蝶々夫人」を2000回以上演じてきた世界的な声楽家の実演に初めて接し、次のように書き残している。

 「私は、類も稀な彼女の芸術に接して、驚愕し、興奮し、打ち砕かれて、茫然として、なす術さえも知らなかった。」

 そうだった。平間さんが三浦環(★注①)を聴いたときに抱いた感覚に襲われたのである。器楽の演奏を聴いても出てこない感情だ。「打ち砕かれて、茫然とし」たのだ。これが歌と演技の力なのだろう。感動なんかではない。震撼したのである。

★注①三浦環(みうらたまき1884-1946)は、東京音楽学校を卒業後、1911年に開館した帝国劇場でオペラに出演、14年にドイツ留学、15年に英国デビュー、16年に米国で「蝶々夫人」に初出演、36年までイタリアを含む欧米各地で「蝶々夫人」のタイトルロールを2000回歌い、プッチーニ本人からも高い評価を受けた。日本人初の国際的なオペラ歌手である。

 本田美奈子さんが日本で一番上手い歌手だとは言わないが、筆者は本当に「打ち砕かれ」るほど狼狽したのである。受け止め方が過剰で、20年前の記憶が美化されてしまったのだろうか。

 本田さんのミュージカル出演歴(文末の年表参照)を見ると、「ミス・サイゴン」(1992-93)1年半の結果、製作者や聴衆の支持を得て、切れ目なく12年間ミュージカル出演を続けたことがわかる。

 その間、ミュージカルの練習と本番をこなす一方、ポップスとクラシックのCD(シングル9枚、アルバム5枚)を発表し、多くのコンサートにも出演しているのだから、恐るべき歌手に急成長していった。

 ポップス、ロック、演歌、ミュージカル、そしてクラシック・クロスオーバーまで、日本のポピュラー音楽100年分を縦に積み上げて「類も稀な芸術」活動を開始した。しかし、これから40代、50代と経験を重ねて世界的な歌手への道だって夢ではなかった本田さんのキャリアは、38歳で突然絶たれてしまった。

 2004年11月ごろから微熱が続き、翌2005年1月12日に入院、急性骨髄性白血病の治療に入る。