誰しも道徳的でありたいと望んでいるだろうが、たいていのリーダーは時が経つにつれて倫理観を失っていく。肩書きと権限を得たことで周囲の接し方が変わるなか、人間として真っ当であり続けることは、それほど容易ではない。筆者は、その要因として「全能感」「組織文化的な感覚麻痺」「見て見ぬふりの正当化」の3つを挙げ、これらのダイナミクスに抵抗する方法を示す。


 ある暖かい晩のこと、社外での戦略会議を終えた企業幹部の一団が、地元で有名なレストランに到着した。

 彼らはともに夕食をとるのを楽しみにしているが、CEOがテーブル席の場所に満足せず、変えるよう要求する。「これは、私の秘書がいつも予約してくれる席とは違う」と彼は言う。若い給仕は即座に店のマネジャーを探し、マネジャーは、他に空いている席はございませんと説明する。

 一団は気分を切り替えようとするが、またもやCEOが口をはさむ。「眺めが気に障るのは私だけかい。どうして今日、工事が行われているんだ」と、彼は知りたがる。給仕は説明しようとするが、その甲斐はない。「きみはもっと頑張る必要があるな」と、CEOは返す。緊張感で空気が重たい。

 給仕が立ち去った後、誰かが彼の無能さについて冗談を口にする。CEOはそれで機嫌を直したようで、自分も軽蔑的な冗談で応じる。一団が笑う。

 あなたがもしこの夕食会に同席していたら、CEOに、その言葉遣いと態度には同意しかねると伝えるだろうか。もっとよい言動の範を示すだろうか。それとも、口出しせずにいるだろうか。

 この場面には、倫理の境界線を越えることにつながる、3つの心理的ダイナミクスが含まれている。

 その1つ目は、「全能感」だ。人は、自分には力と特権があるとあまりに強く感じると、礼儀正しい振る舞いのルールが自分には当てはまらないと思ってしまう。

 2つ目は、「組織文化的な感覚麻痺」である。周囲の人が調子を合わせていくうちに、次第に逸脱的な規範を受け入れて体現し始めている。

 3つ目は、「見て見ぬふりの正当化」である。周囲の人が倫理の逸脱に対して声を挙げない。権力者と良好な関係でい続けるといった、より直接的な見返りが念頭にあるためだ。

 企業界でこれよりはるかに深刻な逸脱が生じる際にも、同じダイナミクスが働く。たとえば、日産における背任疑惑米メディア業界におけるセクハラ告発フェイスブックでのプライバシーの侵害金融業界におけるマネーロンダリング麻薬性鎮痛剤(オピオイド)による中毒に製薬会社が果たした役割などである。

 たいていのリーダーは時とともに倫理観を失っていく、という証拠を見つけるのは、不可能ではないものの困難である。だが、警鐘を鳴らしている人もいる。ウォーレン・バフェットは、株主向け年次書簡の中でバークシャー・ハサウェイの慣行について説明しながら、自身と副会長のチャーリー・マンガーによる次のような気づきに言及している。

「チャーリーと私は……企業によるあらゆる種類の、会計上および運営上の不正行為を目にしてきました。ウォール街の期待に応えようという経営陣の欲求に誘発されたものです。“ザ・ストリート”(ウォール街)を失望させまいとする“他愛のない”ごまかし――たとえば、四半期末の在庫の積み増し、拡大し続ける保険損失の黙認、手をつけてはならない積立金の引き出しなど――から始まったものが、本格的な不正行為への第一歩となりうるのです」

 バフェットの言葉が意味深長であるのは、それが実際に、私たちの大半に当てはまるからだ。

 聖人でも犯罪者でもない善意のリーダーが、罠や落とし穴だらけの場所を急いで前進する最中、時にみずからの道徳的指針を省みるのを忘れてしまう。そのような多数派の人々にとって、道徳的なリーダーシップとは、自身の行動が善意に基づいているのか、それとも悪意に基づいているのかという単純な問題ではない。その中間にある広大な部分で、舵取りをすることなのだ。

 では、自分または配下のチームがモラル崩壊へと向かっていると、どのようにして知ればよいだろうか。以下に、自分自身とチームにおける「全能感」「組織文化的な感覚麻痺」「見て見ぬふりの正当化」を突きとめる方法をさらに示すとともに、それぞれのダイナミクスに抵抗する秘訣をいくつかご紹介する。