ただ、トランプ氏はその一方で、過去の貸し借りや恩義にとらわれない冷酷な一面もある。「おだて」は必要条件だが、必要十分条件ではない。

 正恩氏がその厳しい現実を思い知らされたのが今年2月28日、ハノイで開かれた第2回米朝首脳会談だった。

 拙著『ルポ 金正恩とトランプ』(朝日新聞出版)で詳細を書いたが、首脳会談で、正恩氏は自信満々だった。5項目からなる米朝首脳共同声明案をトランプ氏に提示した。

 そこには、以下の内容が書かれていた。

 1:連絡事務所の相互設置などを通じて信頼関係を築き、新しい米朝関係を樹立する
 2:政治的な宣言なども交えながら、朝鮮半島の平和体制を構築する
 3:寧辺の全核施設を廃棄する代わり、米国が主導して一部の国連制裁を解除する
 4:朝鮮戦争で行方不明になった米兵の遺骨収集と返還を進める
 5:合意事項の全てを履行した後、米国は北朝鮮の明るい未来を保証する

 この合意案は、事前の実務協議での米国の主張を反映したものではなかった。

 米国務省のビーガン北朝鮮政策特別代表は、北朝鮮の金赫哲対米特別代表との事前協議で、「核施設の全容を明らかにするとともに、非核化ロードマップの作成が必要だ」と繰り返し主張したが、金氏は「最高指導者が決めることだ」と言って取り合わなかった。

 首脳会談の前日、ポンペオ米国務長官が、ハノイで金英哲党副委員長との会談を試みたが、結局、無視されていた。

 顔をしかめる米代表団のなかで、唯一、トランプ氏はこの合意案を評価し、サインしても構わないというそぶりを見せたという。

 ここで、ポンペオ氏がトランプ氏に会談場の外に出るように促した。

 ポンペオ氏はトランプ氏に「本当にサインする気ですか。サインしたら、大統領再選の芽がなくなりますよ」と言って説得したという。

 ポンペオ氏も未来の大統領を狙っている以上、いい加減な合意が結ばれることを傍観することは、自身の政治生命に影響すると考えたのだろう。

 ポンペオ氏自身、18年7月の訪朝時に金英哲氏から「お前の言うことは理解できない。ここで今からトランプに電話しろ」と言われて携帯電話を投げつけられるなど、屈辱を何度も味わってきた。

 こうしたことも、ポンペオ氏を冷静な判断に向かわせたのかもしれない。