金融庁が老後に備えて資産形成を促した報告書が、「年金だけでは老後の生活費が2000万円不足する」と国民を脅したとして大炎上し、報告書そのものが「存在しなくなる」という前代未聞の珍事が起きました。
この話の奇妙なところは、報告書にそんなことは書いてないことです。
総務省の家計調査では、平均的な高齢者世帯は年金などの収入が約21万円に対し支出が約26万円、この不足分を65歳の平均的な金融資産2252万円から取り崩しています。この現状を考えれば、現役世代は積み立て運用などで2000万円程度の資産形成を目指したほうがいい。――報告書の趣旨は要するにこれだけで、「2000万円ないと生きていけない」という話とはずいぶんちがいます。
それにもかかわらず大騒ぎになったのは、報告書の「平均」が高すぎるからでしょう。持ち家で金融資産2000万円以上保有している高齢世帯は全体の3割で、「平均以下」とされた残りの7割が「自分たちは生きていけないのか」と不安に駆られたのです。
この出来事からわかるのは、いまや「年金」に触れるのが最大の政治的タブーだということです。
資産調査では70歳以上の約3割、700万人が金融資産を保有していません。じゅうぶんな金融資産を持っていない層も含めれば、高齢者の半分以上が老後の生活を年金に依存しているのが実態です。このひとたちは年金が減額されると生きていけなくなってしまうので、ちょっとした風説にも過敏に反応してしまいます。
政治家も官僚も、今後は年金について当たり障りのないことしかいわなくなるでしょう。そうやって現実から目を背けているうちに事態が改善するならそれでもいいでしょうが、少子高齢化はますます進み問題は深刻になるばかりです。
その結果、いったい何が起きるのでしょうか。
ひとつは、「マクロ経済スライド」の仕組みによって、年金制度が破綻しないよう受給額が減らされていくことです。これが「100年安心」で、支払う年金をいくらでも減額できるなら制度そのものは「安心」にちがいありません。もっとも、年金で暮らしていけない膨大な貧困高齢者が街にあふれることになりますが。
「100歳まで(年金で)安心して暮らしたい」というなら、年金の減額は不可能です。その場合は支給総額がどんどんふくらんで、やがて財政は行き詰まるでしょう。そうなると物価が大きく上昇するハイパーインフレが起き、国民は「インフレ税」の重い負担に苦しむことになりまますが、それによって国家の債務は軽くなってきます。
日本の将来はこの二択で、どちらになるかはわかりませんが、いずれにしても大きな混乱は避けられそうもありません。
そうなると個人にできることは、できるだけ多くの資産を保有して「衝撃」に備えることです。こうして話は金融庁の「幻の報告書」に戻っていきます。
ほんとうのことを否定してもろくなことにはなりません。自助努力を放棄して国に頼るだけでは、「安心」な老後は手に入らないでしょう。もちろんこんなこと、まともなひとならみんな気づいていると思いますが。
『週刊プレイボーイ』2019年6月24日発売号に掲載
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『働き方2.0vs4.0』(PHP研究所)。
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