レジェンドインタビュー不朽・1955年4月5日号 石川一郎氏・経団連初代会長

 戦後の日本経済の発展は、政・官・財界の「鉄の三角形」と呼ばれるほどの強い結び付きによるものといわれる。

 終戦直後、財界を形成していたのは、経済団体連合会(経団連:1946年設立)、日本経営者団体連盟(1948年設立)、経済同友会(1946年設立)、日本商工会議所(1922年設立)、関西経済連合会(1946年設立)といった5団体を中心とする有力企業の経営者たちの横のつながりだった。

 この5団体のうち、1922年設立の日本経済連盟会を源流とし、戦後日本の経済政策について財界から提言することを目的に発足したのが経団連(2002年5月に日本経営者団体連盟と統合し、現日本経済団体連合会)だ。

 そして、その初代会長となったのが、石川一郎(1885年11月5日~1970年1月20日)である。

 東京帝国大学の応用化学科を卒業し、大学院に入るが中退して父の経営する関東酸曹に入社。その後大学に戻って助教授を務めたが、1915年に関東酸曹に再び入社。同社はその後、渋沢栄一らによって設立された日本初の化学肥料製造会社、大日本人造肥料などと合併して日産化学工業となり、石川は1941年、社長に就任した。

 戦前は、化学肥料業界のみならず、化学工業界をけん引。化学工業統制会会長として,化学工業の戦時統制を手がけた。

 そして終戦。初代経団連会長に任命されたわけだ。

 戦時中の統制経済から“戦後版統制経済”に切り替わる中で、化学工業統制会の会長だったという経歴が重視された面は否めない。

 また、戦後間もなくの経団連の役割は、GHQ(連合国軍総司令部)や政府に経済界からの要望を伝え、手を携えて経済復興の道筋を付けることだった。財閥系の名だたる経営者たちが占領軍による「公職追放」によって表舞台から退場を余儀なくされる中、非財閥系企業出身で学者肌、しかも英語に堪能だったという石川に白羽の矢が立ったのだろう。その背景には日本銀行総裁だった一万田尚登の推挙があったといわれる。

 会長時代は、日本の防衛産業の整備に尽力、1950年からの朝鮮戦争による「特需」で日本経済を復活させる道筋をつくったともされる。1956年に会長の座を東芝社長だった石坂泰三に譲り、退任。その後は原子力委員会委員として日本の原子力開発をリードした。

 「週刊ダイヤモンド」1955年4月5日号に掲載された石川自身が語る、化学工業の業界人としての回顧と、経営者としての心得、経団連会長としての意気込みは、一読に値する。日本の戦後復興期を支え、その後の方向性を決めた重要人物であることは間違いない。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

化学が嫌いだったのに
なぜ、応用化学を選んだか

1955年4月5日号・経団連初代会長石川一郎氏インタビュー1955年4月5日号より

 年寄りになると、とかく昔の話をしたがる。私はそれが大嫌いなんだ。それは必ず自分の失敗談を言わないで、自慢話をするのが大体七、八分ですね。だからそういうことを言うべきもんでない。伝記などで書くこともあるけれども、生きているうちに書くべきもんでない。すっかり結末をつけてから書くべきものだと思う。

──ひつぎを蓋(おお)うて(ひつぎにふたをして、つまり死んでから)評価しろというわけで……。

 そう。どうもこの頃、生きているうちに、書いたりなんかする人がある。この間、一万田尚登君(当時の大蔵大臣、日本銀行総裁も務めた)が書かれたでしょう。まあ日本銀行総裁としては、大体成功だったけれども、しかし今度政界に出てどうなるか。これを見ないうちに、前のことだけ書いちゃ駄目だ。私に序文のようなものを書けというから……「日本銀行におけるがごとき職績を残したら、立派なもんだと思う」と書いた。私はそういう考えを持っているんだ。

 実は、私は中学を出て高等学校へ行くときに「天文」へ行ってやろうと思った。私は数学が好きだったから……。

 その時分の高等学校には二部というのがあってその中の甲というのが工科、乙というのが天文とか動物とかで……三部が医学だった。

 ところが、私の恩人に田中栄八郎(「製紙王」と称された実業家、大川平三郎の実弟)という人がいて、その田中さんが社長をやっておられる会社の常務を、私のおやじがやっていた。その田中さんが、私に、「おまえがこうやって、学校へ入れるようになったのは、誰のためだと思う。おまえのおやじは日本では最も早く化学工業に従事した人間の一人で、そのおやじのおかげで、おまえは今日になったのだから、おまえはおやじがやった学問をやれ。おまえの血の中には化学が入っているのだ。是が非でも化学をやれ……」と言われた。これはもっともだと思った。そして工科に入るべく、二部の甲を受けて合格した。

 しかし私は化学が嫌いだった。そのくせ、ああいう暗記ものは好きだった。いよいよ高等学校3年になると、はっきり態度を決めなければならぬ。それで応用化学へ入るべく決心した。

 そして今度、3年たったら大学出るわけだね。ところが、やはりその田中さんが、おやじの会社へ入れと言う。僕は少し嫌だったんだ、おやじの会社へ入るのは……。何だか、おやじの威光とか、なんとか言われるのがつらいもんだから……。それで私は大学を出ると、すぐ大学院へ入っちゃった。

 その前のことだが、王子製紙の苫小牧工場(北海道)を、大学2年のときに見学に行った。ちょうど、支笏湖を利用して発電所を造り、苫小牧工場の動力にしようという計画があった。ところが、その発電所の予備発電所ができて、苫小牧から支笏湖までの間の山林を切り抜いて、水力電気の施設を準備していた。レールを平らに敷くために、丘をカットする。それが、あそこは火山灰だから、崩れて、穴になる。その中に熊がいたというんだ。それが明治41年だ。