エチオピアを旅したことをきっかけに何回かに分けてこの魅力的な国について書いてきたが、最後に、エチオピアの興味深い宗教と歴史についてまとめておこう。
以下の記述はアルヴァレス『エチオピア王国誌』(岩波書店)所収の長島信弘氏による「解説」および長島氏らによる「補注」、石原美奈子編『せめぎあう宗教と国家 エチオピア神々の相克と共生』(風響社)所収の石原氏による「国家を支える宗教―エチオピア正教会」「国家に抗う宗教―イスラーム」に拠っている。
エチオピアの歴史をつくってきたのは北部の「アクスム地方」と、エリトリア、ジブチの紅海沿岸部で、古来「アビシニア」と呼ばれていた。大地溝帯にあるエチオピア北部は標高2000メートルの高原地帯を形成しており、それが浸食によって深くえぐられたことで、台形上の孤立した平地がいくつも生まれた。この特異な地形がエチオピアを多言語・多民族国家にし、数奇な歴史を生みだした。

エチオピアは紀元前後にはユダヤ教とギリシア文明の強い影響を受けていた
エチオピアの歴史は、建国伝説によれば紀元前10世紀まで遡ることができる。この頃、イスラエル王国のソロモン王と、エチオピアの女王マケダが出会い、エチオピア初代の王でソロモン王朝を創始するメネリク1世が生まれたとされるからだ。
考古学史料によって確認できるのは紀元前4世紀の先アクスム期からだが、それ以前になんの文明もなかったということではない。東アフリカにはナイル川上流(現在のエジプトとスーダンのあいだ)にクシュ、アラビア半島南端にシバ(サバ)という古代国家が存在したことがわかっている。クシュ国は、メロエ(スーダンの首都ハルツームの北東)に残されたピラミッドが示すようにエジプト文明から強い影響を受けていた。
地図を見ればわかるように、エチオピア北部の高地アクスムはナイル川の源流にあたり、タカゼ川を北に下ればクシュ国のあるスーダン東部に達し、東に向かうと紅海とアラビア海をつなぐマンデブ海峡だ。紅海を渡るとアラビア半島南端のシバ国に至る。
とりわけ興味深いのはシバ国で、旧約聖書に「シバの女王」がソロモン王に会いにエルサレムを訪問する記述があるように、この一帯は紀元前10世紀にはユダヤ教が伝わっていたらしい。ユダヤ教は現在思われているようなユダヤ人=選民の宗教ではなく、積極的に布教されていたのだ。
エチオピア人の祖先については諸説あるものの、この頃にはアラビア半島南部のユダヤ教徒がマンデブ海峡を渡って冷涼なエチオピア高地に移住するようになり、そこで原住民(クシュ語系住民)と交わったと考えられている。この移住によって紀元前にはエチオピアにユダヤ教が伝わり、それとともに「シバの女王」伝説が換骨奪胎されて、「マケダ(エチオピアの「シバの女王」)がソロモン王との間に子をもうけた」という建国神話になったのだろう。
(ソロモンとマケダの子どもである)メネリク1世がエルサレムからモーゼの十戒の刻まれた石版を納めた聖櫃(アーク)を持ち出し、それがアクスムの教会にいまも保管されているという伝説は、イギリスのジャーナリスト、グラハム・ハンコックの『神々の刻印』(凱風社)で有名になった。
[参考記事]
●世界的ベストセラー『神の刻印』に書かれたアークの行方はどこまで正しいのか?
エチオピアの最初の王国である「アクスム王国」は紀元前1世紀頃に成立し、ギリシア人の旅行家が1世紀後半に書いた『エリトリア海周航記』にその名がしるされている。興味深いのは、3世紀のものと思われるアクスム国の戦勝碑にゼウス、ポセイドン、アレースの名が見られることだ。これは初期のアクスムの王が、ギリシアの神々を信仰していたことを示している。
このようにエチオピアは、紀元前後には早くもユダヤ教(ヘブライズム)とギリシア文明(ヘレニズム)の強い影響を受けていた。エチオピアは「アフリカの国」と思われているが、紛れもなく古代地中海世界の一部だったのだ。
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