人と違うことをやる、リスクを取ってでも新しい道を行く――。イノベーターとして活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきたのか。今回は自動車などの走行データを収集・解析することで、移動に関するさまざまなサービスに活用し、「移動の進化を後押しする」ことを目指すスマートドライブの代表、北川烈さんです。(聞き手/ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

小学生で、親に代わって
住宅ローンを借り換え

北川烈Photo by Masato Kato 拡大画像表示

──東京の世田谷区育ち。どんな子供時代でしたか。

 父はグラフィックデザイナーで、クリエーティブ系の会社を経営していました。母は専業主婦です。特別に裕福だったわけではありませんが、何かに不自由したという記憶はありません。

 両親から何かを強制されたり、あれをしたら駄目とか言われたことはなかったです。むしろ「親すら信用せずに、自分で考えろ」と言われて育ちました。

 中学受験も、小学校5年生のときに、自分ですると決めて、塾に行きたいと言ったら「どうぞ」と。大学受験で大変な思いをしたくなかったので、付属校に入りたいと思っていました。

 慶應義塾普通部を選んだのは、課題発表の場である「労作展」を見て興味を持ったこと、それから、千葉の館山で5キロメートルを泳ぐ遠泳があると聞いて、振り切れた文武両道が面白いと思いました。

 好きな科目は理数系で、小学生のときに算数と理科では全国1位になったこともあります。でも、社会の偏差値は35くらいでした。川の名前などが覚えられず、この頃から極端だったのだと思います。

 中学に入っても、1年かけて戦国時代の3カ月間だけを教わるような濃密な授業にはハマったのですが、一般的な勉強には興味がなくなりました。慶應普通部は、成績が最下位だと落第するのですが、僕は高校も含めた6年間、ずっと下から2番目を維持しました。

──謙遜して言っているわけではなく、実際に下から2番目?

 はい。先生から「狙って下から2番目に居続けるのは、なかなかできることではないので、大成するかもしれない」と言われたときは、逆にうれしかったです。

 当時は、自分で“ハッキング”と呼んでいたのですが、いかに効率的に試験で良い点数を取るかを考えて、実行に移していました。

 例えば、ある科目でいいノートを取っている人に声を掛けてノートのデータを提供してもらい、その対価として、別の人から提供してもらった別の科目のいいノートを提供するという仲介です。こうすると、僕の手元には労せずにいいノートが集まります。いいノートを提供できない人には、データを売っていました。

──当時からビジネスのセンスがあったんですね。

 中学に入ったとき、お小遣いがゼロになったんです。小学校1年生のときは月額100円で6年生になったら月額600円だったので、中学生になったら1000円かなと思っていたのですが、お小遣いはお手伝いで稼げ、と。

 まあ、それでいいかなと思いました。元々、成功報酬型の手伝いが好きで、電気の節約プランを立てて、月の電気代が前年比で下がったらそのうちの半額をもらうようなことをしていました。

 小学生のときには住宅ローンの借り換えもやりました。かなり金利の高い時期にローンを組んだままになっていたので、両親に話をしたら、父が「じゃあ、おまえに任せる」と言うので、母と2人で駅前の銀行に行って、聞きたいことは母に質問してもらって手続きをしました。今思うと、あのときはもっと成功報酬をもらえばよかったです。実際には、お年玉を少し多くもらった程度でした。

──住宅ローンの金利を意識している小学生というのもすごい。

 小学生の頃から自分の口座を持って株の売買をやっていたので、新聞をよく読んでいました。

──中学から大学まで慶應、米国留学を経て東京大学大学院在籍中に起業というから、てっきり典型的な高学歴エリートかと思いきや、かなりぶっ飛んだキャラですね。

 中高時代も、遠泳のような活動は楽しんでいました。初めての遠泳のとき、前の日に夜更かししたせいで、最初の20メートルくらいで足がつってしまって、でも途中でやめたくないので、手だけを頼りに3時間半近くかけて泳ぎ切りました。この根性が、僕の一番の強みだと思っています。

 中学のときには、仲の良かった友達がグレてしまって事件を起こし、退学になったことがありました。僕はこのとき学校からヒアリングを受け、「知っていることを全て話さないと処分をする」と言われ、大人ってひきょうだなと思ったのですが、僕以上に母が怒って、「そんな学校、やめなさい!」と。僕も父もそこまでは考えていなかったので、やめはしませんでしたが。

 実は、家族では母が一番ぶっ飛んだ人なんです。もしも僕が女だったら母に命名権があったのですが、その場合は「ハワイ」とか「メロン」とか名付けられるはずでした。

──将来を具体的に考え始めたのはいつ頃ですか。

 大学に入ったときです。高校でテニスを始めていたのですが、僕が大学に入った年に、錦織圭選手が国際大会で優勝したんですよ。いくら頑張っても追い付けない世界があるなと感じ、できないことをやるよりも、よりバリューを出せるところで勝負した方がいいと思いました。大学時代に留学をしたのもそのためです。

 大学では、僕の成績でも進めた商学部で金融工学などを勉強していたのですが、理系分野に興味があって、検索すると、この分野ではMIT(マサチューセッツ工科大学)がトップだと分かりました。

 MITには行けなかったとしても近くにはハーバード大学もあります。それで、ボストンへ行きました。慶應からはMITへの留学プログラムはなかったので、人づてにMITメディアラボの教授を紹介してもらい、そこで研究室の雑用をしながら授業を聞く機会をもらいました。

 このときの経験は大きかったです。印象に残っているのは、光の回折(障害物の背後から光が乱反射して回り込んでくること)を利用して壁の向こうを見る技術を研究しているチームがあって、これをどう使うかという話題になったときです。僕の頭には戦争とか盗撮とか、そんなことしか浮かばなかったのですが、周りは内視鏡とか自動運転とか、人類にとっての課題を解決しようとしていました。技術の最先端にいる人たちがそうした意識を持っていると知ったのは、刺激的でした。優秀なやつほどいいやつなんだなと思ったのもこのときです。

 この経験から、僕自身が個として際立とうとするのは厳しいなと感じました。でも、優秀な人を束ねて総合戦をすることはできるし、その方が自分には向いていると思いました。今も、こんな僕でも事業ができているのは周りの人のおかげです。