ちなみに、大川小の当時の柏葉照幸校長が学校を見に行ったのは、3月17日だった。元校長がいたという河北総合支所から、水没した大川小のある釜谷地区まで、震災翌日の朝には舟で行き来できたというのに、どれだけ初動が遅かったのかがわかる。

「我々は最初、旧市内の学校を中心に動いたんですが、旧市外の学校からも情報が入るようになって、来られた先生方からは、必ず聞きとっていって、模造紙やコンピュータなどを使って、この被災の情報はまとめられたのです」(山田課長)

震災から5日後に大川小校長が到着
“3号配備”のなかで届いた情報とは

 大川小学校の情報が最初に入ってきたのは、柏葉元校長が来た、3月16日のことだという(実際には、山田課長の認識違いで、前日の15日、柏葉元校長が河北総合支所からFAXで報告していることが、確認されている最初の情報だ)。

 連載の第1回で取り上げたように、「校庭避難 引き渡し中に津波」「屋根を超えて津波」「油断」などと記される聞き取り記録「各学校の状況報告」が作成された日だ。

 山田課長は、こう説明する。

「その前にも“大川小の屋上に避難”とか、各校から、いろんな情報がありました。ただ、大川小に屋上はないんだけど…と疑問に思いながら書いていって、最終的に消されることになるわけです。とにかく、これらの情報については、最終的にその学校へ行って確認しなければいけない。そこで、我々は13日以降、かなりの学校に歩いて行ったという状況です」

 当初、釜小学校でも、行方不明者が100人を下らないという情報が流れていた。その中で、大川小学校が特別だったのは、「教員が全員亡くなっている可能性が高いらしい」という情報が流れていたことだった。このため、「学校のほうでの対応ができにくい。市教委のほうから行かなければいけないと自覚していた」という。

 ただ、マンパワーが圧倒的に不足していたため、山田課長自身も、市役所から「外に出て行かないように」という指示を受けていた。

「私の範囲は、幼稚園から高校まである。高校入試関係のトラブルに、人事異動の時期とも重なって、教育長が不在だったので、最終的な仕事は、私が進めざるを得ない状況でした。やっと歩いてたどり着いた担当者と、夜中の0時とか1時頃に打ち合わせをして、翌日帰っていくというような不眠不休の日々が、“3号配備体制”の終わる5月中旬まで、ローテーションを組みながら2ヵ月くらい続いたんです」(山田課長)

 3号配備体制とは、全ての職員が職場で24時間勤務するのが原則。各学校では、災害発生時、校長、教頭、またはそれに代わる教職員が、施設の被災状況を速やかに電話やFax、メールで教委に報告することを義務付けられている。

 もちろん、市役所職員も被災しているし、山田課長自身も自宅を流されたうちのひとりだ。

 市全域で被災した小中高校は15校、幼稚園は1園。市教委の職員1人1人も被災者でありながら、このような異常な状態の中で市民を支えてきたという事実も忘れてはいけない。