ひとは不平等であっても公正なルールのゲームを好む
そこで次にピンカーは、「不平等を不公正と混同してはならない」と述べる。最近の研究では、「人は分配方法が“公正”だと思えるかぎり、分配結果が“均一ではない”ほうを好む」ことが明らかになったのだという。
宝くじは当せん者と外れた大多数のあいだにとてつもない「格差」を生むが、そのルール(単純に運がいい人間が当せんする)が公正であれば参加者は納得する。逆にルールが歪められていると(たとえば、貧困層が宝くじに当たりやすくなる“アファーマティブ・アクション”)、それによって不平等が縮まっても「不公正なゲーム」と見なされてひとびとは受け入れない。「ひとは公正なルールのゲームを好む」のだ。
この研究を受けてピンカーは、「人は国が能力主義社会であるかぎりは経済的不平等を受け入れるが、国が能力主義社会だと感じられなくなったときには怒りを覚える」と述べる。問題は「成果主義」ではなく、「成果主義=能力主義が政治的に歪められていること」なのだ。
その結果右派のポピュリストが、「自分の取り分以上のものを不正に得ている悪者」として、黒人などのマイノリティや移民、生活保護受給者などを槍玉にあげるのを許すことになる。だとすればいたずらに“右傾化”を嘆くのではなく、ルールをより公正なものに変えればいいことになる。
だがこの“ネオリベ的”なロジックにも、容易に反論が思いつく。宝くじのルールは(期待値が異常に低いことを脇に置いておけば)たしかに公正かもしれないが、ゲームに参加しない(宝くじを買わない)という選択が認められている。だが市場経済は、国民のほぼ全員が事実上、参加を強要されるゲームだ。
私が錦織圭選手とテニスをすれば、100回戦って100回とも錦織選手が勝つだろう。私はその結果を不公正だとは思わないが、もしもこの「絶対に勝てない」ゲームに強制的に参加させられるとしたら、そのようなルールをものすごく不公正だと感じるにちがいない。ポピュリストに投票するひとたちは、高度化する知識社会をそのような「無理ゲー」だと思っているのではないだろうか。
もうひとつピンカーは、福祉社会が機能するかどうかは国民がどの程度自分をコミュニティの一部だと感じられるかにかかっているので、「受益者があまりにも移民やエスニック・マイノリティに偏ると、その連帯感に亀裂が生じる恐れがある」とも述べている。この主張はリベラルがぜったいに受け入れることができないだろうが、同じゆたかな社会でも、なぜ北欧が平等な福祉社会になって、アメリカが自由競争にもとづいた格差社会になったのかをきわめてシンプルに説明する。
北欧社会は民族的に(比較的)均一で、アメリカのような人種問題がない。そんな社会では、「なんであんな奴らのために俺の税金を使うんだ」という反発は生まれにくい。近年、北欧社会が政治的に揺らぎはじめたのは、移民問題が顕在化したことでアメリカと同じような状況が生まれつつあるからだろう。
「中間層の空洞化は、アメリカ人の大半が裕福になった結果」
ピンカーは、「(アメリカの)中間層の空洞化」は誤解だとも述べている。その理由は、1979年から2014年までのあいだにアメリカの低所得層(3人世帯で年収3万ドル以下)の人口の割合が全体の24%から20%に、下位中間層(3万~5万ドル)が24%から17%に、中間層(5万~10万ドル)が32%から30%に減少していることだ。だとしたら減った分はどこにいったのかというと、その多くは上位中間層(10万~35万ドル)になり、人口全体の割合も13%から30%に増えた。さらにその一部は富裕層(30万ドル超)に上がり、人口比で0.1%から2%に増えたという。
アメリカ社会はこの30~40年でとてつもなくゆたかになった。「中間層の空洞化は、アメリカ人の大半が裕福になった結果」で、格差の拡大(富裕層の所得が中間層や低所得層の所得よりも速く上昇した)はその代償なのだ。
そのうえ、アメリカでは貧困も撲滅されつつある。アメリカはじつは“隠れた福祉国家”で、国民(被用者)は雇用主を介して健康、年金、障害等の保険をかけている。国による社会的支出にこれらを加えると、アメリカの社会的支出(再分配比率)はOECD35カ国中34位から、一気にフランスに次ぐ第2位に躍り出る。
この“隠れた給付”に消費財の質の向上と価格低下を考慮に入れて生活費を計算すると、「アメリカの貧困率は過去50年間で4分の3以上も低下し、2013年には4.8%になった」と社会学者は推計している。――2015年と16年に中間層の所得がかつてないレベルまで上がったことで貧困率は1999年以来の最小値になり、最貧困層(シェルターにも保護されていないホームレス)の人口は2007年から15年にかけておよそ3分の1に減少した。
もちろんピンカーは、アメリカの人口の一部(中高年、低学歴、非都市域、白人)が苦境に立たされていることを見逃しているわけではない。だがこうした現象を「経済格差」として社会問題にすることは、技術革新反対論(AIをぶっ壊せ)や近隣窮乏化政策(メキシコとのあいだに壁をつくれ)を引き起こすことにしかならない。重要なのは不平等それ自体と格闘することではなく(そもそも不平等は「問題」ではない)、「不平等と一緒くたにされている個々の問題」と取り組むことなのだ。
そのなかで明らかな優先課題は経済成長率を上げることで、全体のパイが増えれば再分配に回せる部分も大きくなる。そのうえで教育、基礎研究、インフラ整備に投資し、医療給付や退職給付(年金)の政府負担を増やす(雇用主の負担を減らし企業を活性化させる)。
それでもまた足りないなら、「啓蒙されたゆたかな社会」は最終的にはUBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)かそれに近い負の所得税を導入することになるのではないかと予想している。
「不平等な社会のほうがかえって人々の幸福度が高い」という事実
「不平等=悪」という常識(ステレオタイプ)は、30年間にわたって68の社会の20万人を調査した社会学者らの研究によって決定的に反証された。彼らが発見したのは、「発展途上国においては、格差は人々の気力をくじくのではなく逆に鼓舞していて、不平等な社会のほうがかえって人々の幸福度が高い」という事実だった。
なぜこんなことになるかというと、貧しくて不平等な社会でひとたび経済成長が始まると、「自分もゆたかになれる(明日は今日よりもよくなる)」と信じられるからではないだろうか。逆に貧しくて平等な社会は、「頑張ってもたいして生活はよくならない」と思えて「希望」を失ってしまうのだ。
そうだとしても、先進国の格差拡大はひとびとを不幸にしているのではないだろうか。だが幸福度のアンケート調査によると、「アメリカ人の自己申告の幸福度における格差は、実は縮小している」という。その理由は、アメリカ社会が全体としてゆたかになったからで、富裕層の富が増えても生活が大きく改善されるわけではない(2台ある車を20台にしても幸福感はさほど変わらない)のに対して、低所得者の生活がずっと速いスピードで改善されつつある(家族で1台しかなかった車が2台になれば生活の満足度は大きく上がる)からだとされる。
しかしこれは、いまひとつ説得力に欠ける。アメリカ社会がゆたかになり、ひとびとの幸福度も上がっているなら、なぜこれほど不満をもつひとが多いのかを説明できない。こうして、「幸福感が豊かさに比例しない理由」が問われることになる。
2015年のアメリカ人は半世紀前に比べて寿命は9年延び、教育は3年長く受け、所得は家族1人につき年間3万3000ドルも増えている。だとすれば今日のアメリカ人は1.5倍幸福になっていなければならないが、ぜんぜんそんなことになっていない。
これは心理学的には、「ヘドニック・トレッドミル現象(目が光や闇に慣れるように幸福に慣れてしまう)」と「社会的比較理論(幸福感は相対的なもので周囲との比較で決まる)」で説明される。
アメリカ人が思ったほど幸福になっていないことを認めたうえでピンカーは、重要なのは主観的な幸福ではなく、客観的な幸福の条件が向上していることだという。主観的な幸福感がすべてなら、「オウム真理教に入って洗脳されればいい」という話になってしまう。それよりも、幸福の土台(インフラ)である健康、教育、自由、余暇、人権など(アマルティア・センのいう「基本的な人間のケイパビリティ」)が満たされているかどうかの方がはるかに大事だ。「人は長生きをして、健康に恵まれ、刺激的な人生を送っていれば真の良い状態にある」といえる。それを幸福だと自覚できるかどうかは副次的な話なのだ。
これはたしかにもっともだが、「私はぜんぜん幸福じゃない」という“ゆたかな”ひとにこの理屈をぶつけてもまったく納得してもらえないだろう。そこで次に、「主観的な幸福とは何か」が問題になる。
次のページ>> 「幸福な人生」を目的として努力するのは徒労
|
|