ビジネスジャーゴン、たとえば流行り言葉や英略語などに惑わされてはいけない──。これまでもずっといわれてきたことだ。しかし、我々はいっこうに懲りない。

 ビジネスや企業経営の課題は「古くて新しい」もの、「唯一最善解のない」もの、「けっして終わりのない(ネバーエンディング)」ものが大半であるため、表現を変えることで、いま一度喚起を促す、あらためて肝に銘じさせる効果がたしかに期待できる。とはいえ、曲解あるいは一知半解で語られたり、前代未聞のニューコンセプトと礼賛されたりすることが絶えない。

 経営戦略論の研究者である一橋大学副学長の沼上幹氏いわく、「最新手法や最新理論と呼ばれるものの中には、かなり古い世代の理論から多くの遺産を受け継いでいるものがある。しかし、さまざまな人たちが『新しい解決策』『新しい概念』なるものを次々に提唱してくる経営戦略論の領域では、過去の理論とはまったく異なるオリジナルなものだと強く主張する者が登場し、その利用者である実務家に混乱を招きかねない」。

 実際、ビジネスジャーゴン最大の弊害は、ステレオタイプや浅い思考を招き、自分の頭で深く考える力を弱らせ、経営戦略に関する理解やリテラシーの涵養を阻害することである。こうした悪弊から逃れるには、やはり思考様式そのものを改めるしかない。そこで、本インタビューでは、沼上氏の『経営戦略の思考法』(日本経済新聞出版社)をひも解きながら、戦略とは何か、戦略的意思決定とは何かという原点に立ち返り、ビジネスリーダーに求められる深い思考をもたらす方法、多くの人たちに見られる思考の癖やその問題点について問い直す。

戦略的意思決定と
業務的意思決定

編集部(以下青文字):最初にお聞きします。戦略とは何か。これほど頻繁に使われている言葉にもかかわらず、共通の定義が見当たりません。

ビジネスリーダーの<br />「戦略的思考力」を鍛える【前編】<br />
一橋大学 副学長|経営管理研究科 教授|森有礼高等教育国際流動化機構 機構長 
沼上 幹 
TSUYOSHI NUMAGAMI
一橋大学副学長、一橋大学大学院経営管理研究科教授。組織学会第9代会長(2013年10月~2015年8月)。1983年、一橋大学社会学部卒業。1985年、同大学大学院商学研究科修士課程修了。1988年、同大学大学院商学研究科博士後期課程単位取得退学。商学博士。2000年、同大学大学院商学研究科教授、2011年、商学研究科長・商学部長。2014年、国立大学法人一橋大学理事・副学長に就任。2018年、同大学大学院経営管理研究科教授。主な著書に、『液晶ディスプレイの技術革新史』(白桃書房、1999年 *日経・経済図書文化賞ならびに毎日新聞社エコノミスト賞を受賞)、『行為の経営学』(白桃書房、2000年)、『わかりやすいマーケティング戦略』(有斐閣、2000年)、『組織戦略の考え方』(ちくま新書、2003年)、『組織デザイン』(日経文庫、2004年)、『わかりやすいマーケティング戦略 新版』(有斐閣アルマ、2008年)、『経営戦略の思考法』(日本経済新聞出版社、2009年)、『ゼロからの経営戦略』(ミネルヴァ書房、2016年)、『小倉昌男』(PHP研究所、2018年)がある。共著に、『事業創造のダイナミクス』(白桃書房、1989年)、『創造するミドル』(有斐閣、1994年)、『企業とガバナンス』(有斐閣、2005年)、『戦略とイノベーション』(有斐閣、2005年)、『企業と環境』(有斐閣、2005年)、『組織とコーディネーション』(有斐閣、2006年)、『組織能力・知識・人材』(有斐閣、2006年)、『ビジネススクール流「知的武装講座」(Part3)』(プレジデント社、2006年)、『組織の“重さ”』(日本経済新聞出版社、2007年)、『現代の経営理論』(有斐閣、2008年)、『企業戦略白書 VIII』(東洋経済新報社、2009年)、『企業戦略白書 IX』(東洋経済新報社、2010年)、『戦略分析ケースブック』(東洋経済新報社、2011年)、『戦略分析ケースブックVol.2』(東洋経済新報社、2012年)、『戦略分析ケースブックVol.3』(東洋経済新報社、2013年)、『一橋MBA戦略ケースブック』(東洋経済新報社、2015年)、『市場戦略の読み解き方』(東洋経済新報社、2017年)、『一橋MBAケースブック【戦略転換編】』(東洋経済新報社、2018年)がある

沼上(以下略):私は、アメリカの経営学者、イゴール・アンゾフの見解を参考にしています。企業は「ヒト・モノ・カネという経営資源を製品やサービスに転換して利潤を追求する社会組織である」と規定したうえで、アンゾフは、転換プロセスと環境との関係を規定・変更するのが「戦略的意思決定」、環境との関係を変えずに転換プロセスの効率性を最大化させるのが「業務的意思決定」だと位置付けました。

 言い換えると、製品─市場ポートフォリオ(自社が参入している市場の組み合わせ)の変更など、環境との関係を変える意思決定が戦略であり、たとえば文房具を使う量を減らして事務を効率化するなど、環境との関係は変わらない意思決定が戦術だといえるでしょう。

 戦略論の考え方もいろいろあります。たとえば、1990年代前半までは、「コストリーダーシップと差別化は両立しない」とするマイケル・ポーターの戦略論が主流でしたが、その後、チャン・キムらが唱えたブルーオーシャン戦略のように、「コストリーダーシップと差別化は両立可能である」と主張する考え方が登場します。

 この問題は、簡単に片付けられる類のものではありません。時に両立し、時に両立しない、というのが正解ではないでしょうか。両立するかどうかの問題については、東京大学の新宅純二郎教授がまだ大学院生だった1993年──ポーターの『競争の戦略』が上梓されたのは80年でしたね──に発表した博士論文「既存産業の脱成熟と競争戦略」の中で、すでに指摘されています。

 その中で取り上げられたのは電卓の例で、性能の向上とコストダウンの競争が同時進行していました。電卓の中枢である半導体は高性能化が進行しても、製品の売れ行きが伸びて、ロット数を大幅に増やせれば、低価格が実現できるから、そういう現象が観察されたのだと思います。

 しかしながら、両方を追求するほうがよいのか、それともコストリーダーシップや差別化のどちらかに注力したほうがよいのかは、市場や技術に関する多様な条件に左右され、簡単に白黒付けられない問題です。単純にスタック・イン・ザ・ミドルの時代は終わった、と言うべきではないと思います。