なぜ「アドバース・セレクション」を理解することがビジネスにおいて重要なのか
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サマリー:「アドバース・セレクション」(adverse selection:逆淘汰・逆選択)は多くのビジネス取引で起こりうる深刻な問題である。これは、私的情報を持つプレーヤーに虚偽表示するインセンティブが生じ、結果として、虚偽... もっと見る表示をするプレーヤーだけが市場に残りがちになる現象のことだ。今後のビジネスでは、そのメカニズムと解消法の理解を求められるだろう。本稿は『世界標準の経営理論』(ダイヤモンド社、2019年)の一部を抜粋し、紹介したものである。 閉じる

──前回の記事:現代の経営学で不可欠な「組織の経済学」(連載第26回)

ビジネスにつきまとうアドバース・セレクション

 情報の経済学は、組織・人のビジネス取引・やりとりにおける「情報の非対称性」を出発点にする。特に、取引・やりとりの前に起きる問題を扱うのが情報の経済学だ。

 そんな情報の経済学における、最も基本的かつ中心的な問題が「アドバース・セレクション」(adverse selection:逆淘汰・逆選択)だ。私的情報を持つプレーヤーに虚偽表示するインセンティブが生じ、結果として、虚偽表示をするプレーヤーだけが市場に残りがちになる現象をいう。

 ここでは、よく引き合いに出されるアドバース・セレクションの例を4つ紹介しよう。

(1)就職市場

 就職市場は、情報の非対称性が生じる典型だ。採用する側の企業にとっては、志望者の「本当の能力」「真面目さ」は実際に働いてもらうまでわからない。逆に志望者は自身の本当の能力・性格を知っている(私的情報を持っている)。企業はこの非対称性を解消するために面接を繰り返すわけだが、それでも弁が立つ志望者なら自分の能力・性格を過剰に脚色(=虚偽表示)するかもしない。

 そうであれば先と同じ論理で、企業は志望者へよい就労条件を提示できない。他方で本当に能力がある志望者はそれでは満足しないから、その会社に就職しないだろう。このように就職市場は本質的にアドバース・セレクション問題を抱えており、薄い市場になりやすい。すなわち失業が発生するのだ。

(2)保険など、買い手が私的情報を持つ場合

 これまでの例では、売る側・就職を志望する(=自分を売り込む)側が私的情報を持っていた。他方で、「買う側」が私的情報を持つこともある。

 その代表例は保険だ。例えば、この世には「注意深くて自動車事故を起こしにくい人」と「不注意で事故を起こしやすい人」がいる。しかし、その人が本当に注意深いかどうかは当人にしかわからないのだから、保険会社は完全には把握できない。この場合は、自動車保険に入る側(=買う側)が、当人が注意深いかどうかという点について私的情報を持っているのだ。

 ここでやっかいなのは、「自分は不注意で事故を起こしやすい」とわかっている人ほど保険に入りたがることだ。しかし保険会社はどの加入希望者が本当に不注意かはわからないので、結果としてすべての人に高い保険料を設定せざるをえない。すると「注意深いので事故を起こしにくい」と自分でわかっている人にとっては割高となりその人は保険を買わないので、結果として不注意な人だけが保険に入ることになりかねない。

(3)融資・投資

 金融業はそのものが、アドバース・セレクションに囲まれた業界といえる。例えば銀行融資なら、銀行側がどんなに与信調査をしても、融資先企業の内状を完全には把握できない。他方で本当は経営状態が悪くて資金に困っている企業ほど、「当社の経営には問題がないので融資してほしい」と主張しがちだ。

(4)企業買収(M&A)

 企業買収では、買収する側の企業がアドバース・セレクションに直面する。買収対象として売り込まれる企業は、社内に問題を抱えていていることも多い。他方でこのような企業は、なるべくよい条件で買収してもらうために、デューデリジェンス(審査)の過程でも自社の不都合な内部情報を隠すかもしれない。

 このように、情報の非対称性とそれに伴うアドバース・セレクションは、ビジネスの至るところでつきまとう本質的な問題である。だからこそ情報の経済学はいまや純粋な経済学の枠組みを超え、ファイナンス・会計学・組織論などビジネススクールのあらゆる領域で研究され、教えられているのだ。