「男と女はどれほどちがっているのか?」はアメリカでリベラルvs保守の政治的争点になっており、その論争はヨーロッパや日本など先進諸国に影響を及ぼしている。最近、関連する本を何冊か読んだので、備忘録も兼ねて、いったいなにが問題になっているのかをまとめてみたい。
性差は生得的なものか、社会的なものか
「男と女はちがう」という主張は、歴史的には「男の方が女よりも優れている」という性差別を含意していた。「女は感情的だ」「女には難しいことはわからない」などがその典型だ。初期のフェミニストがこのステレオタイプを覆すために、「男と女は(生殖器官を除けば)同じだ」と反論したのは当然だった。
だがその一方で、フェミニズムには「男と女は生得的にちがっている」と主張する一派もあった。ここでは、「女の方が男よりも、生物としても精神的にも優れている」とされた。
だがその後、この争いはフェミニズム内部からアメリカ社会を二分する政治的対立に変わっていった。その経緯を簡略化するなら、以下のようになるだろう。
(1)生物学者、遺伝学者、脳科学者、動物行動学者らが、昆虫(ショウジョウバエ)や哺乳類(ラット)など、詳細に研究されている実験動物の性差に基づいて、ヒトの男脳と女脳を研究しはじめた。霊長類(アカゲザルなど)においてもオスとメスのホルモンや脳機能のちがいが明らかになっており、それがヒトに拡張されるのは当然だった。
(2)こうした一連の研究から、『男は火星人、女は金星人』『話をきかない男、地図の読めない女』など、男脳と女脳の性差を強調したベストセラーが誕生した。
(3)すると保守派(彼らの一部は進化論を「聖書の教えに反している」として否定している)が「科学」を根拠に、「男が外で働いて女が家事・育児をするのは自然の摂理だ」「男が機械やIT系の仕事、女が教育や看護の仕事を好むのは個人の自由な選択だ」と、性役割分業を正当化するようになった。同様に保守派は、「男と女は脳の仕組みからちがっているのだから、子どもは男らしく/女らしく育てるべきだ」として、ジェンダーフリーを推し進めるリベラルを攻撃した。
(4)この風潮に危機感を抱いたリベラルな科学者が、「男脳/女脳は生物学的な性差を過度に強調している」「ヒトは社会的な動物なのだから、男と女の生物学的なちがいはほとんど意味がない」として、先行する研究を批判するようになった。この立場は「社会構築主義」と呼ばれる。
(5)こうした批判を受けて、脳科学者などがより詳細な男と女の生物学的なちがいを発表するようになった。こちらは性差の「本質主義」だ。
このようにして本質主義と社会構築主義のあいだで「サイエンス・ウォーズ」の様相を呈するようになったのだが、ここで押さえておくべきは、「男脳/女脳」は第一義的には科学者同士の論争だということだ。ただし、科学者が政治的に中立というわけではなく、生物学に基礎を置く「本質主義者」は(本人の政治的立場にかかわらず)保守派に近い主張をし、性を社会的なものと見なす「社会構築主義者」は明らかにリベラルな主張をする。
興味深いのは、この「科学論争」が女性研究者同士で行なわれていることだ。
アメリカの神経精神医学者で「女性の気分とホルモン・クリニック」を創設したローアン・ブリゼンディーンは2006年に“The Female Brain(女脳)”を出版し、100万部を超えるベストセラーになった(世界30カ国以上で翻訳されており、日本では『女性脳の特性と行動 ──深層心理のメカニズム』パンローリング)。ブリゼンディーンは2010年に、“The Male Brain: A Breakthrough Understanding of How Men and Boys Think(男脳:男や少年たちがどう考えるかの画期的理解)”も書いている。
ブリゼンディーンはこの本で、女性の気分や行動にはエストロゲンなどの女性ホルモンが強く影響しており、子ども時代、思春期、母親になったとき、更年期で脳が異なるはたらきをすると論じている。思春期になって女性のうつ病が増えるのは(それ以前は性差はない)、月経によるホルモンの増減に適応するのが難しいからだともいう。
これに対して同じく女性神経科学者のリーズ・エリオットは2009年の“Pink Brain, Blue Brain: How Small Differences Grow Into Troublesome Gaps -- And What We Can Do About It(ピンクの脳 ブルーの脳:わずかなちがいはどのようにしてやっかいなギャップになるのか。そして、それに対して私たちができること)”を書いてブリゼンディーンの「女脳説」を批判した。これも『女の子脳 男の子脳 神経科学から見る子どもの育て方』(NHK出版)として翻訳されている。
エリオットも脳科学者として、遺伝子やホルモンによって生物学的な性差が生じることは否定しないが、それよりも親の子育てや学校、子ども集団など社会的な影響の方がずっと強いと主張する。生物学的なわずかないちがいは、社会のなかで増幅されるのだ。
女性研究者が性差をめぐって対立すると、フェミニスト活動家の批判は、当然のことながら保守派に与する(ように見える)女性研究者に向けられた。『科学の女性差別とたたかう: 脳科学から人類の進化史まで』(作品社)では、イギリスの女性ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーが巷間に流布する性差の研究を再検証しているが、それと同時に、「男と女には生物学的な性差がある」とする女性脳科学者らにインタビューを試みて拒否される。欧米のフェミニズムを席捲する社会構築主義と、本質主義の科学者との対立がどれほど根深いかがよくわかる。――男の研究者は、自らに火の粉が飛んでこないように、女同士の対立を「高みの見物」しているということもできる。
“性差のサイエンス・ウォーズ”は、保守派が「男と女のちがいは生得的だ」と主張し、リベラルが「性差(ジェンダー)は社会的構築物だ」と反論する構図になっているが、これを混乱させるのが同性愛者などLGBTの存在だ。奇妙なことに、保守派は同性愛を「本人の選択」と見なし、リベラルは生得的なものだと考えるのだ。
このような逆転現象が起きる理由は、きわめて明快に説明できる。保守派は同性愛を「神の摂理に反している」とするが、同性愛者を批判するためには、それが本人の自由な選択(自己責任)でなくてはらならない。同様にリベラルは、同性愛者を擁護するために、それを生得的なもの(本人の意思ではどうしようもない)として免責する必要がある。
こうして、保守派は「男女のちがいは本質的だが同性愛は社会的構築物だ」、リベラルは「男女のちがいは社会的構築物だが同性愛は本質的だ」と主張することになる。当然のことながらどちらの説も一貫性に欠け、政治イデオロギーによって科学が歪められていることは明らかだ。
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