人間が合理的だからこそ、組織の問題は起きる
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サマリー:今回から「エージェンシー理論」(プリンシパル=エージェント理論とも呼ばれる)をひも解いていく。企業組織はすべてモラルハザード問題を抱えている。たとえば上司(プリンシパル)と部下(エージェント)間の「目... もっと見る的の不一致」「情報の非対称性」によって、エージェントがプリンシパルにとって不利益な行動を取りがちになる問題である。このモラルハザードのメカニズムとその対処法を考えるのが、エージェンシー理論の主目的だ。本稿は『世界標準の経営理論』(ダイヤモンド社、2019年)の一部を抜粋し、紹介したものである。 閉じる

モラルハザード問題

 前回までは、組織の経済学の最初の理論として「情報の経済学」を取り上げ、情報の非対称性に起因するアドバース・セレクション問題について議論した。前章で述べたように組織の経済学は、古典的な経済学の持つ「人間についての仮定」を崩すことが出発点だ。本書『世界標準の経営理論』前章と本章では、すべてのプレーヤーが同じ情報を持つという完備情報の仮定を崩し、「情報の非対称性」を取り入れる。人間についての仮定をより現実に近づけることで、複雑な企業組織の問題に肉薄できるのだ。

 アドバース・セレクションとは、実際のビジネス取引前からプレーヤー間に情報の非対称性が発生し、結果として本来望ましいはずの取引ができなくなることだった。その例として中古車の取引や、保険ビジネス、就職活動などを取り上げ、これらの取引ではアドバース・セレクション問題によっていかに取引が「薄く」なっているかを解説した。

 それに対して、取引が成立した後に組織で生じる問題を説明するのが、エージェンシー理論である(※1)

 保険ビジネスを取り上げよう。例えば、Aさんは注意深く運転するので自動車事故を起こしにくく、Bさんは不注意で事故を起こしやすいとする。しかし、誰が注意深くて、誰が注意深くないかは、本人しか知らないこと(私的情報)なので、保険会社は「誰が事故を起こしやすいか」がわからない(情報の非対称性)。

 したがって保険会社は、AさんにもBさんにも同じように高い保険料を提示せざるをえない。結果、保険料に納得しないAさんは保険に加入せず、本来なら保険会社にとって望ましくないBさんだけが保険に加入するというのが、アドバース・セレクション問題の骨子だった。

 さてここからが本論である。中古車取引と保険取引には、大きな違いがある。前者は中古車売買が成立すれば、そこでプレーヤー間の取引関係は終わりだが、後者は取引成立後も関係が続くことだ。そこで仮に、保険会社がアドバース・セレクションを乗り越えて、AさんにもBさんにも保険を購入してもらったとしよう。すると、保険会社はさらなる問題に直面する。なぜなら、もともとは注意深かったAさんだが、保険に入った後は「以前ほど注意深く行動しなくていい」と考えるインセンティブ(動機づけ)が出てくるからだ。

 そもそもAさんが注意深かったのは、保険がなかったからだ。しかし一度保険に入れば事故を起こしても損失がカバーされるため、Aさんが以前ほど注意深く運転しなくなるのはある意味「合理的」だ。保険会社にとって優良顧客だったはずのAさんが、保険に入ったがゆえに優良顧客でなくなるのだ。もともと注意深くなかったBさんが保険に入れば、さらに注意深くなくなるのは言うまでもない。