「エージェンシー理論」はモラルハザードのメカニズムと対処法を考える

 これが保険ビジネスのもう一つの問題である。これをモラルハザード問題(あるいはエージェンシー問題)という。このモラルハザードのメカニズムとその対処法を考えるのが、エージェンシー理論の主目的だ(※2)

 同理論は、プリンシパル=エージェント理論とも呼ばれる。多くのビジネス行為は、経済主体(プリンシパル)が特定行為を代理人(エージェント)に依頼して、代わりに行動してもらっているととらえられる。例えば自動車保険なら、加入者に注意深くあってほしい保険会社(プリンシパル)が、「注意深く運転する」という行為を加入者(エージェント)に依頼していると解釈できる。

「モラルハザード」は人間の合理的な判断がもたらす問題

 モラルハザードが高まる条件は2つある。1つ目はプリンシパルとエージェントの間の「目的の不一致」(interest misalignment)だ。これは、両者の目指すところ・利害関係の乖離を指す。例えば、保険会社は加入者に「注意深く運転してほしい」のに、加入者の方は保険に入ったがゆえに「注意深くなくなる」のがそれに当たる。2つ目は、前章と同様に「情報の非対称性」だ。保険会社は加入者の日々の行動を、逐一把握できないからだ。

 プリンシパルとエージェントの間で「目的の不一致」と「情報の非対称性」が高まると、エージェントがプリンシパルにとって不利益な行動を取りがちになる。保険加入者の注意深く運転するインセンティブが弱まって、自動車事故を起こす確率が高まるのはその典型だ。モラルと聞くとあたかも倫理的な問題に聞こえるが、これは人間の合理的な判断の帰結としてとらえられるのである。

企業組織はすべてモラルハザード問題を抱える

 企業組織は、プリンシパル=エージェント関係の固まりと言っていい。組織を取り巻く様々な立場の人々が時にプリンシパルとなり、時にエージェントとなる。そして両者の間に「目的の不一致」「情報の非対称性」が存在し、モラルハザードが生じている。図表1はその一端を示したものである。モラルハザードの解明と対処法の探究は、経済学、ファイナンス、管理会計、そして経営学における大きな研究テーマになっている。なかでも2つの柱となっているのが、部下(従業員)の管理・監督問題と、コーポレートガバナンス(企業統治)だ。

(図表1)拡大画像表示

 部下(従業員)の管理問題は、人事経済学や管理会計分野で膨大な研究が行われている(※3)。この分野は一般に、上司・管理職をプリンシパル、部下をエージェントと見なす(図表1-a)。例えば管理職である部長は、部署の目標を達成するために部下に「一生懸命に働いてほしい」ので、その「懸命に働く」という行為を部下に依頼していると解釈できる。しかし、その部下が常に懸命に働くとは限らない。むしろ安定した企業にいれば、手を抜きたがる部下も多いだろう(=利害の不一致)。「外出先から直帰する」などと言って、出先でサボる部下もいるかもしれない。しかし部長は、なかなか部下一人ひとりの行動を把握できない(=情報の非対称性)。

 ここで視点を変えて、社長・CEOなどの経営者をプリンシパルと見なしてみよう。すると今度は、先の部長がエージェントになる。経営者は自社の収益を高めるために、部長の率いる部署に可能な限り高い成績を上げてほしいはずだ。すなわち「可能な限り高い成績を上げる」という行為を部長に依頼していることになる。しかし部長は、例えば年度内の予算を達成したらその期はもう無理をせず、今期売り上げられる案件をわざと来期に回すかもしれない。プリンシパルである経営者にとって、これはモラルハザードだ(図表1-b)。

 さらに複雑なことに、いまの例でプリンシパルだった経営者でさえ、視点を変えればエージェントになる。この場合のプリンシパルは、株主になる。

 次回は資本主義の基本的なルールに潜むモラルハザード問題を取り上げる。

※1)第1部冒頭および第5章でも述べたが、より正確にはエージェンシー理論も情報の経済学の一部なのだが、経営学では同理論は特に重視されてあたかも独立した理論のように扱われているので、本章で独立して取り上げることにする。

※2)同理論は「実証主義者によるエージェンシー理論」(positivist agency theory)と「プリンシパル=エージェント関係分析」(principal-agent research)に分けて整理する見方もある。前者はコーポレートガバナンスなど企業の所有構造を主な対象とし、(古典的な研究では)必ずしも数理的なアプローチを取らない。この潮流の代表的な古典論文には、Berle, A. & Means, G. 1932. The Modern Corporation and Private Property, Routledge. や Fama, E. & Jensen,M. 1983. “Separation of Ownership and Control,” Journal of Law and Economics, Vol.26, pp.301-325. 、Jensen,M. & Meckling, W. 1976. “Theory of the Firm: Managerial Behavior, Agency Costs, and Ownership Structure,” Journal of Financial Economics, Vol.3, pp.305-306. などがある。後者の潮流は、より一般的なプリンシパル=エージェント関係のモデル化を目指すもので、ゲーム理論を使った精緻な理論分析が行われる。分析対象も本章で紹介する従業員管理に加えて、弁護士と顧客の関係、バイヤー=サプライヤー関係など多岐にわたる。経済学分野での代表的な古典論文には Harris, M. & Raviv, A. 1978. “Some Results on Incentive Contracts with Application to Education and Employment, Health Insurance, and Law Enforcement,” American Economic Review, Vol.68, pp.20-30. 、Holmstrom, B. 1979. “Moral Hazard and Observability,” Bell Journal of Economics, Vol.10, pp.74-91. などがある。管理会計分野の代表的な論文には Demski, J. & Feltham, G. 1978. “Economic Incentives in Budgetary Control Systems,” Accounting Review, Vol.53, pp.336-359. がある。なお、経営学分野におけるエージェンシー理論の代表的なサーベイ論文には Eisenhardt, K.  1989. “Agency Theory: An Assessment and Review,” Academy of Management Review, Vol.14, pp.57-74. がある。近年の経営学者によるサーベイには Mahoney, J. 2004. Economic Foundation of Strategy, SAGE Publications. がある。

※3)エージェンシー理論を応用した日本企業のコーポレートガバナンス研究についての文献は多くある。例えば、近年出版されたなかには、宮島英昭編著『日本の企業統治』(東洋経済新報社、2011年)がある。また、日本企業の人事制度について述べたものには都留康、久保克行、阿部正浩『日本企業の人事改革』(東洋経済新報社、2005年)、大湾秀雄『日本の人事を科学する』(日本経済新聞出版社、2017年)がある。