企業は「不測の事態」にどう対処すべきか(1)Photo:iStock

入山章栄氏の最新刊 『世界標準の経営理論』は発売から1カ月で5万部を突破し、なおも好調な販売が続いている。800ページを超える本書は、約30の経営理論を網羅する。内容は章ごとに完結しており、いつ、どこから読んでも良い。ビジネスに関わる全ての人が、辞書のように利用できる。

今回から取引費用理論の解説に入る。この理論は「人による将来を見通す認知力の限界」を前提にしている。新型コロナウイルスの影響も、まさに「将来を見通す認知力の限界」を超える出来事だ。こうした不測の事態に対し、企業のコスト構造が急変することも少なくない。取引費用理論は、不測の事態にどう対処すべきかを思考するときに、軸になりうる理論だ。

企業は「不測の事態」にどう対処すべきか(1)入山章栄(いりやま・あきえ)
早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授
慶応義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。 三菱総合研究所で主に自動車メーカー・国内外政府機関への調査・コンサルティング業務に従事した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。 2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。Strategic Management Journal, Journal of International Business Studiesなど国際的な主要経営学術誌に論文を発表している。 著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』(英治出版)、『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(日経BP社)がある。
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近代経営学に最も影響を与えた取引費用理論

 これまで、組織の経済学を代表する理論として「情報の経済学」「エージェンシー理論」を紹介してきた。両理論とも、古典的な経済学が仮定しなかった情報の非対称性を取り込み、組織内外を取り巻く問題とその解決法を説明するものだ。

 今回からは組織の経済学の最後として、取引費用理論(transaction cost theory あるいはtransaction cost economics:以下TCE)を紹介する(※1)。TCEは、リソース・ベースト・ビューと並び、近代経営学に最も影響力を持つ理論といえるだろう。後で紹介するように、同理論を応用した経営学の実証研究は膨大な数に及び、応用できるテーマも多岐にわたる(※2)

 TCEの発展に貢献した研究者は多くいるが、その代名詞はシカゴ大学のロナルド・コースとカリフォルニア大学バークレー校のオリバー・ウィリアムソンだ。前者は1991年、後者は2009年にノーベル経済学賞を受賞している(※3)。ウィリアムソンはTCEについて、著書で以下のように述べている(※4)

 (TCE focuses on) transactions and the costs that attend completing transactions by one institutional mode rather than another. (Williamson, 1975, pp.1-2.)

 (取引費用理論の分析対象は)、ある制度的な形態(mode)下で行われる取引とそこで発生するコストである。(筆者訳)

取引費用理論は、取引で発生するコストを最小化することを目的とする

 この一文にあるように、TCEが説明する対象はビジネスの「取引」である。取引で発生する「コスト」を、最小化する形態・ガバナンスを見いだすのがその目的であり、後で述べるように企業・組織をその一形態ととらえるのだ(本稿では「企業」と「組織」はほぼ同義であり、以降は主に「企業」を使う)。抽象的な一文であるが、本章を読み進めればこの意味は理解いただける。

 さて、情報の経済学やエージェンシー理論同様に、TCEも古典的な経済学が無視してきた人についての仮定を取り込むことが出発点だ。しかしTCEで取り込むのは情報の非対称性ではない。ここで重要なのは、「限定された合理性」である(次ページ図表1を参照)。