橘玲の日々刻々 2020年4月23日

「個人差あるところ、遺伝あり」
行動遺伝学というラディカルな学問によって
従来の心理学は危機を迎えている
【橘玲の日々刻々】

「肥満遺伝子」や「知能遺伝子」があるわけではなく肥満や知能に関係する多数の遺伝子群がある

 遺伝についてのよくある誤解は、ある特定の遺伝子によって形質=表現型が決まるというものだ。

 だがじっさいには、ハンチントン病や鎌形赤血球症のように単一の遺伝子によって引き起こされる疾患はごく一部でしかない。こうした病気は、「(原因となる)潜性遺伝子を2つもっている(ホモ接合)」か「潜性遺伝子をもっていない」あるいは「1つだけもっている(ヘテロ接合)」かで発症するかどうかが決まる。いわば、ゼロか1かのデジタルだ。

 それに対して、身長や体重から知能、性格、精神疾患まで、ほとんどの形質=表現型は正規分布する。これはベルカーブのことで、平均的な個体がもっとも多く、プラス方向にもマイナス方向にも極端になるほど頻度は小さくなる。

 特定の遺伝子(正確には1対の対立遺伝子=アレル)の効果がはっきり見える表現型がメジャージーン(主遺伝子)で、数多くの遺伝子がかかわるのがポリジーン(多因子遺伝)だ。

 安藤氏は、「一般に正規分布するような形になるものは、数多くの要因がランダムにかかわっている。数多くのランダムに伝わる遺伝子(ポリジーン)に加え、数多くのランダムな環境要因からなっている」と述べる。これは「肥満遺伝子」や「知能遺伝子」を発見することはできず、存在するのは肥満や知能に関係する多数の遺伝子群だということだ。ポリジーンとは、「まだ特定されていない「無名の」関連遺伝子の効果の総体」なのだ。

 近年の分子遺伝学の急速な進歩によって、こうした「遺伝子群」を特定しようとするさまざまな試みが行なわれるようになった。全ゲノム複雑形質分析(GCTA)、量的形質遺伝子座(QTL)、全ゲノム連鎖解析(GWAまたはGWAS)など、いずれも10年前には想像すらできなかったテクノロジーだろうが、それですら数個で遺伝率30~50%を説明する効果量の大きな遺伝子は見つかっていない。「かろうじて突き止めた候補遺伝子あるいは候補SNP(一塩基多型)も、その一つひとつの効果量は1%にも満たず、すべてを足し合わせてもふたご研究が示す遺伝率に遠く及ばない」のだ。

 さらに、最新の分子遺伝学の手法を駆使しても、知能、言語能力、精神病理、パーソナリティ、物質依存などで、双生児研究が明らかにした遺伝率のおよそ3分の1から半分までしか説明がつかない。残りの半分から3分の2は、「一つひとつの遺伝子の効果の和として説明できない、遺伝子間同士の交互作用や遺伝と環境との交互作用の効果」ということになる。これが「失われた遺伝率(missing heritability)」問題だ。

 ポリジーンでは特定の形質を生み出す遺伝子の数は膨大な数に上り、一つひとつの影響力が小さい。それに加えて遺伝子間や環境との相互作用まであるのだから、発達はとてつもなく複雑な過程だ。安藤氏は、「ノーマルな心理・行動的形質の個人差について、少数の遺伝子情報で精度の高い説明や予測ができるという楽観論はもはや成り立たない」と結論する。

 興味深いのは、ポリジーンの世界では優生学が否定されることだ。

 ネズミが単位時間にどれぐらいの距離を走り回るかを「活動性」という。「ネズミの優生学」では、活動性の高い(低い)オスとメスの個体同士を長期にわたって交配させつづけた。これによってたしかに「遺伝的に活動性が高いグループ」と「活動性が低いグループ」が生まれたが、ぞれぞれのグループ内の分散(ばらつき)は最初よりも大きくなったという。

 これをヒトにあてはめるなら、ゴールトンが構想したように優秀な男女だけを選択して「交配」すれば、世の中全体として(平均的には)以前より知能の高い集団ができるだろうが、そのなかの分散、すなわち「知能の格差」はさらに大きなものになる可能性が高い。これは知能が(他の多くの形質と同様に)ポリジーンだからで、「知能遺伝子(主遺伝子)」がない以上、クリスパー・キャス9のようなゲノム編集で高知能の「デザイナーズヘイビー」を誕生させるという試みは上手くいかないのではないだろうか。

偶然としか思えない出来事にも遺伝が影響している

 行動遺伝学はずっと「遺伝決定論」と批判されてきたが、これまで見てきたように、それは遺伝と環境(共有環境と非共有環境)の影響を双生児研究を土台に統計的に計量する科学だ。それに対して従来の心理学は、遺伝の影響をはなから認めない「環境決定論」か、遺伝の影響を統制せずに環境のみを原因と見なす「似非科学」ということになる。

 その心理学では、最近になって「再現性」が大きな問題になっている。「心理学実験 再現つまづく」(日本経済新聞2019年12月15日)の記事によると、心理学の教科書にかならず掲載されるような有名な実験――そのなかには「目の前のマシュマロを我慢できる子は、高い学力などを身につけ社会的に成功する」という「マシュマロ実験」、被験者を看守役と囚人役に分けて大学内につくった模擬的な監獄に閉じ込めて心理的変化を追跡した「監獄実験」などが含まれる――を検証してみると、同じ結果が再現できない事態が相次いでいるという。その原因としては、「捏造」とまではいえないものの、「望む結果が出るまで実験を繰り返したり、結果が出た後に仮説を作り変えたりする操作が容認されていた背景がある」とされる。

 安藤氏も、教育心理学では必ず紹介される「ピグマリオン効果」(教師が、この生徒は優秀だと確信をもって指導にあたるとその子の成績はほんとうによくなる)の検証では、「全体としては、確実な効果があるとはいえない、すなわち「効果なし」ということになった」と指摘したうえで、行動遺伝学ではこのような再現性の問題は起きていないと述べる。

 行動遺伝学の頑健さの理由はいくつかあるが、そのなかからひとつ挙げるとすれば、「これまでずっと“科学の名を借りた差別”だと批判されてきた」ことだろう。行動遺伝学者はアカデミズムのこうした偏見とたたかい、他の分野の学者たちの疑いを晴らすために、双生児を対象に膨大な研究を積み上げてきた。こうして、徹底的に検証され再現された結果だけが残ったのだ。

 それに対して心理学では、「リベラル」なイデオロギー(ポリティカル・コレクトネス)に合う研究(「幼児期の母子の愛着が子どもの人格を形成する」など)が無条件に受け入れられてきた。そのためじゅうぶんな検証がなされてこなかった問題が、ここにきて顕在化したのではないだろうか。

 では最後に、行動遺伝学が明らかにした驚くべき知見を紹介しよう。

 2500人あまりを対象にした双生児研究では、人生におけるストレスフルな体験の29%が遺伝(SNP)で説明できた――。これだけならとくに意外とは思わないだろう。「ストレスフル・イベント」には離婚や解雇、借金などが含まれ、こうしたトラブルに遺伝がかかわっているのはある意味当然だからだ(つい借金してしまうのは堅実性=自己コントロール力が低いからだろうが、こうしたパーソナリティは遺伝する)。これを「本人に依存するイベント」とするならば、その遺伝率は30%だった。

 その一方で、「本人とは独立に生ずるイベント」もある。病気になったり、親しいひとが亡くなったり、強盗に遭うなどはたんに運が悪かっただけで、本人の資質とはなんの関係もないと考えるだろう。だが研究者がその遺伝率を計測したところ26%で、統計的には「本人に依存するイベント」と有意な差はなかった。

 このことは、偶然としか思えない出来事にも遺伝が影響していることを示している。たまたまよいことや悪いことが起こったように見えても、そこにはやはり「経験を引き寄せる遺伝的傾向がある」らしい。

 私たちの人生において、遺伝の長い腕は環境にまで延長されているのだ。
 

 

橘 玲(たちばな あきら)

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 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『上級国民/下級国民』(小学館新書)。

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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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