イギリスの選挙コンサルティング会社ケンブリッジ・アナリティカは、2016年のブレグジット(イギリスのEU離脱)とドナルド・トランプ大統領誕生を裏側で操ったとされる。その内幕を描いたブリタニー・カイザーの『告発 フェイスブックを揺るがした巨大スキャンダル』(ハーパーコリンズ・ジャパン)を前回紹介した。
[参考記事]
●ブレグジットとアメリカのトランプ大統領誕生に多大な影響を与えたケンブリッジ・アナリティカ事件の内幕と「行動マイクロターゲティング」の手法
じつはこの事件には、もう一人の内部告発者がいた。それがクリストファー・ワイリーで、カイザーと同じ2019年に“Mindf*ck: inside Cambridge Analytica's plot to break the world.(マインドファック ケンブリッジ・アナリティカの世界破壊計画)”をイギリスの出版社から出している。
前回の記事を公開した直後に、リチャード・ドーキンスが“Please please please read Mindf*ck by Christopher Wylie(どうか、どうか、どうか、クリストファー・ワイリーの『マインドファック』を読んでください)”という一連のTweet(6月4日)をしてこの本を激賞した。それで興味をもって、このかなり長い物語を読んでみた。
クリストファー・ワイリーがSCLに入社する経緯
クリストファー・ワイリーは医師の両親のもと1989年にカナダ・ブリティッシュコロンビア州に生まれ、イギリスの名門大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法律を学んだ。卒業後、ロンドン芸術大学でファッションについての博士論文を書こうとしていたときに、(のちにケンブリッジ・アナリティカを設立する)SCL (Strategic Communication Laboratories/戦略的コミュニケーション研究所)を実質的に経営していたアレクサンダー・ニックスと出会い、2013年春、24歳のときにデータ・サイエンティストとして働くことになる。在籍したのは2014年末までのおよそ1年半で、その後に起きたブレグジットとトランプ当選に衝撃を受けて、内部告発者(whistleblower)になるまでの経緯を綴ったのが“Mindf*ck”だ。
一方、前回紹介したブリトニー・カイザーは1987年にテキサスの裕福な家庭に生まれ、ロンドンの大学を卒業後、やはり博士論文を書いていたときにSCL/ケンブリッジ・アナリティカに営業職として参加し、2014年11月から2018年1月まで約3年間在籍している。
このように二人の経歴はほとんど重なっておらず、ケンブリッジ・アナリティカ事件の前半(2013~14年)をワイリーが、後半(2015~18年)をカイザーが体験したことで、両者の証言を合わせるとそこでいったい何が起きたのかの全貌が見えてくる(ちなみに両者の証言は一致しているわけではなく、しばしば対立する)。
英語版Wikipediaによると、ワイリーは子どものときに難読症(ディスレクシア)とADHD(注意欠陥・多動性障害)と診断され、発達障害(精神的不安定)を理由に学校から迫害を受けたとしてブリティッシュコロンビア州を提訴、6年の裁判を経て14歳のとき29万ドル(約3000万円)の賠償金を勝ち取った(この裁判の話は自伝には書かれていない)。
11歳のとき、ワイリーは歩行障害を起こす難病になり、翌年から車椅子生活を余儀なくされる。この障害によって学校ではいじめの標的になり、授業に出ずに校内のコンピュータ室に籠もってウェブページをつくり、プログラミングを独学で習得したという。
15歳のとき、両親の勧めで大学主催のサマースクールに参加したワイリーは、そこでルワンダ虐殺の生存者と友人になったり、イスラエルとパレスティナの学生の討論を聞くなどしたことで政治に興味をもつようになった。この頃には、自分がゲイ(男性同性愛者)だと性自認していたようだ。
16歳で高校をドロップしたワイリーは、カナダ自由党の集会に参加し積極的に発言したことで、「車椅子で髪を染め、ゲイをカミングアウトしたハッカーの若者」として目立つ存在になっていた。このとき知り合った政党関係者からテクノロジー関係の手伝いをしないかと誘われ、2007年、18歳のときにモントリオール州オタワの政党本部のアシスタントになる。翌08年にはバラク・オバマの大統領選の視察メンバーに選ばれ、ビッグデータとSNSを活用した選挙キャンペーンに衝撃を受ける。これも奇妙な偶然だが、このとき大学生だったカイザーもオバマのキャンペーンにボランティアとして参加している。
オバマの選挙では、VAN(Voter Activation Network Inc.)というコンサルティング会社が有権者の個人情報を収集・活用する先進的なキャンペーンを構築していた。それを間近で観察してオタワに戻ったワイリーは、カナダ版のVANを設立しようとするが、その急進的な手法が強い反発にあったことで、20歳でカナダを離れロンドンで法律を学ぶことにする。
ところがそんなワイリーに、カナダ自由党からの紹介でイギリス自由民主党の関係者が接触してくる。アメリカ大統領選でデータの威力を見せつけられた欧米各国の政党関係者にとって、「新時代の選挙」の内実を知るハッカーの若者はきわめて利用価値が高かったのだ。
こうしてワイリーは、保守党・労働党に次ぐイギリスの第三政党でふたたびデータ主導の選挙キャンペーンを構築しようとするが、やはり急進的な提案が拒まれてしまう。政治に絶望し、ファッションを研究しようとロンドン芸術大学の博士課程に進んだときに、その経歴を知ったアレクサンダー・ニックスから誘いを受けたのだ。――ちなみにこの頃には、足を引きずりながらではあっても、車椅子なしで歩けるようになっていた。
ワイリーは自由民主党のリサーチでロンドン郊外の有権者に話を聞いたとき、政治は彼らにとってイデオロギーではなくアイデンティティ(私は何者で、どこに所属しているか)を示すものだということに気づく。それと同時に、性的マイノリティ(ゲイ)であるワイリーは、ファッションが自分のアイデンティティを示すツールだということを理解していた。
こうして、一流大学の法学部を優秀な成績で卒業しながら、アイデンティティと政治を結びつけるために芸術大学でファッションを学ぶ選択をするのだが、この若者の非凡さがよく現われているエピソードだろう。
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