「能動的・主体的」に学ぶかどうかは、学生と教員の相互作用

 こうしてみると、能動的・主体的に学んでいるかどうかは、講義かグループ活動かといった授業形式によって決まるのではなく、学ぶ側の心の姿勢によることがわかるだろう。

 学生側の知的好奇心が強かったり、その学びを自分の生活に生かしたいといった思いが強かったりすることが、能動的・主体的な学びが生じる条件の一つといえる。いくら知的好奇心を強く刺激する授業であっても、学生の側に学びたいという思いが乏しい場合、なかなか能動的・主体的な学びの場になっていかない。

 その場合は、できるだけわかりやすい授業にしようと工夫することで、学生のなかに眠っている「わかりたい」という思いを目覚めさせることが必要となる。わからないことがわかるようになるのは、誰にとってもうれしいことであり、もともと誰もが「わかりたい」という思いを持っているはずなのだ。ところが、わからない授業を数限りなく経験することで、「わかりたい」という思いが抑圧されてしまっていることが少なくない。

 学生の側にいくら学びに対する積極的な姿勢があったとしても、教員の側に知的好奇心や自分の生活に生かしたいといった思いを満たす力量がなかったり、学生の心を刺激したいという情熱が乏しかったり、授業の形式が学習者の知的好奇心を満たすものでなかったりすれば、能動的・主体的な学びにはなっていかない。ゆえに、「能動的・主体的な学び」というのは、学生と教員の相互作用によって生み出されるものといえる。

 何が何でもアクティブ・ラーニングとして推奨されるグループ活動を盛り込んだ授業形式を取り入れよう、といった空気が教育現場に蔓延しているが、ちょっと立ち止まって考えてほしい。グループで学習するより単独で学習する方が学力が高まるといったアメリカの調査結果を安直に見ているし、そもそもアクティブ・ラーニングということが叫ばれるようになったのは、アメリカで大学進学率が50パーセントを超え、講義を理解できない学生が出てきたことがきっかけだ。放っておいても能動的・主体的に学ぶ姿勢のある学生には、講義形式で密度の濃い授業を行うようなことがあってもいいだろう。