橘玲の日々刻々 2020年7月30日

アメリカは新型コロナ対策で失敗しているとされるが、
オピオイド依存症によってもっと多くの生命が失われていた
【橘玲の日々刻々】

 2016年4月、ロックスターのプリンスが死亡したとき、「鎮痛剤フェンタニルの過剰投与による中毒死」と報じられた。フェンタニルは鎮痛、疼痛作用のあるオピオイドの一種で、モルヒネやヘロインと同じくケシから採取されるアルカロイドの合成加工物だが、処方薬として広く使われている。

 2017年10月、トランプ大統領はオピオイド問題に対処するため「公衆衛生上の非常事態」を宣言した。アメリカ政府によると、2016年に薬物の乱用が原因で最低でも6万7000人が死亡し、オピオイド関連はこのうち4万2000人と6割近くに上った。ヘロインの乱用者数が100万人、鎮痛薬として処方されたオピオイドの乱用者数が1100万人を超えたともいう。

 いずれも驚くべき数字だが、そもそも医師が処方する鎮痛薬でなぜこんな大惨事が起きるのか。それを知りたくて、ベス・メイシーの『DOPESICK(ドープシック)アメリカを蝕むオピオイド危機』(光文社)を手に取ってみた。

 メイシーはアメリカ東南部バージニア州に拠点を置くジャーナリストで、2012年から地元のヘロインの被害状況の取材を始め、この薬禍が1996年に中堅製薬メーカー、パデュー・フレデリックが発売した「オキシコンチン」という処方鎮痛薬に端を発していることを知る。オキシコンチンはやはりオピオイドの一種で、アルカロイドの合成化合物からつくられた鎮痛剤だ。

『DOPESICK』では、この処方薬が貧しい白人労働者の住む街を「破壊」し、ヘロイン中毒が蔓延する経緯と、依存症で子どもを失った親たちが医療関係者とともにこの惨事と闘う様子が描かれている。

 とても興味深い内容なので詳しくはご自身で読んでいただくとして、ここではアメリカにおける「オピオイド問題」とはなんなのかをまとめておきたい。

仕事のない貧しい白人労働者にとって「オキシコンチン」を横流しすることが生活の糧になった

 オピオイド問題の背景のひとつは、アメリカの医療において「痛み」が治療対象になったこと。もうひとつは「プアホワイト」と呼ばれる白人労働者層の貧困だ。

 末期がんの疼痛管理が医療現場で普及するとともに、「治療とは痛みと戦うこと」というそれまでの常識は大きく転換し、1990年代には痛みは血圧、心拍数、呼吸数、体温につづく「第五のバイタルサイン」として医師が対処すべき症状になった。それと同時に専門メディアが医療機関をランキングし、それを保険会社が医療費支払いの参考にしたことで、病院は痛みに積極的に対応せざるを得なくなった。患者という顧客を満足させられなければ、保険会社から治療費の払い戻しが受けられなくなる恐れすらあったからだ。

 そんななかで登場したのがパデュー社のオキシコンチンで、ホスピスや終末医療向け鎮痛剤オキシコドンを一般市場向けに改良し、「12時間効果が持続するため、痛みに苦しむひとが薬を飲むために夜中に起きなくても済む「奇跡」を実現した」と宣伝した(コンチンはcontinueの略)。

 オキシコンチンはたちまちパデュー社の大ヒット商品となり、製薬会社の接待攻勢もあって、多くの医師が痛みを訴える患者に積極的に処方するようになった。やがて、2週間分のオキシコンチンを処方して患者を帰宅させるのが定番の医療行為になっていった。

 最初に薬禍が広まったバージニア州はアパラチア山脈によって東西に分かれ、東には州都リッチモンドやノーフォーク、チェサピークなど歴史のある観光都市が集まる一方で、山の西側はかつては石炭の町として栄えたものの、第二次世界大戦後は炭鉱が次々と閉鎖され高い失業率に苦しむことになった。

 オキシコンチンの乱用が始まったアパラチア中央部の炭鉱地帯は、石炭産業が長期低迷にあった1960年代に、すでに人口の半分が貧困に喘いでいた。その悲惨な状況は当時、大きな社会問題となり、ジョンソン大統領が「貧困との戦い」を宣言し、その後のアメリカの社会保障政策の基盤となったフードスタンプ(食糧費補助)、メディケア(高齢者・障害者向け公的医療保険)、メディケイド(低所得者向け公的医療保険)、ヘッドスタート(低所得者の子どもへの就学援助)などを打ち出すきっかけになった。

 1990年代になってもアパラチア山麓は、アメリカで最高水準の肥満と障害、薬物の乱用、非医療目的の処方箋の乱発・販売といった、不名誉な記録を次々と塗り替えていた。この地域ではそれまで、ロータブやベルコセットなどの鎮痛剤が、ブラックマーケットで1錠あたり40ドルで売られていた。ところが1990年代後半になると、これらの鎮痛剤に変わって、「オキシ」と呼ばれる薬が、80ミリグラムの錠剤1錠あたり80ドルで大量に売られるようになったのだ。

 パデュー社は、「オキシコンチンを処方された方法で服用していれば依存症の危険性は0.5%」と説明していた。それが闇市場にあふれるようになったのは、薬の鎮痛効果を長時間持続させるためのコーティングを取り除くのがきわめて簡単だったからだ。

 依存症者は、オキシコンチンの錠剤を数分間口に入れてゴム引きの表面を溶かした後、いちどそれを吐き出して、コーティングをシャツの袖に擦りつけて剥がす。これによってオレンジ色と緑色のコーティングがシャツの袖に付き、純粋な薬効成分だけが露出する。露出した薬効成分を砕いて鼻から吸入したり、水に溶かして注射するのだ。

 メディケイドの適用者はオキシコンチンを1錠あたり1ドルの自己負担で買うことができたため、それを1錠あたり80ドルで売れば大きな利益になる。「80ミリグラムの錠剤が入った大きなボトルを1つ手に入れれば、それだけで1カ月分の生活費が稼げる」とされ、他の医師から処方を受けていることを申告しないまま別の医師から新たな処方を得ようとする「ドクターショッピング」が常態化した。

 ほどなくして、シャツの裾にオレンジ色や緑色の染みをつけた依存症者たちが、処方箋を求めて町を徘徊するようになった。オキシコンチンをザナックスやクロノピン、ヴァリウムのようなベンゾジアゼピン系の神経薬と組み合わせたときに得られる最上級の陶酔感は「キャデラック・ハイ」と呼ばれた。

 バージニア州の人口わずか4万4000人の町では、1999年8月から2000年8月までの1年間で、オキシコンチン絡みの重罪で150人が逮捕され、過去18カ月間にドラッグストアに対する武装強盗が10件発生した。家の扉にカギをかけないのが当たり前だった地域が、家のなかに銃を常備しなければならないほど危険な場所に変わった。

 仕事のない貧しい白人労働者にとって、かつての石炭は鎮痛剤に変わり、処方薬を横流しすることが生活の糧になったのだ。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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