鐘淵紡績(カネボウ)社長、武藤山治
 岐阜県の豪農の長男として生まれた武藤山治(1867年4月5日~1934年3月10日)は、福沢諭吉に心酔する父親の勧めで、13歳で年少者対象の和田塾(後の慶應義塾幼稚舎)に入学するため上京。その後、慶應義塾本科に移り、4年間、福沢から直接、独立自尊の精神を学ぶ。17歳で慶應義塾を卒業すると、同級生2人と共に米サンフランシスコのパシフィック大学に留学。たばこ工場の見習い工や学食の給仕で学費を工面しながらの苦学生として3年を過ごした。

 帰国後、日本初の新聞広告取扱業や雑誌制作、英字新聞社の翻訳記者などをしていたところ、福沢のおいで三井財閥の重鎮だった中上川彦次郎と出会い、三井銀行にスカウトされた。武藤に課せられたのは、当時業績不振に陥っていた鐘淵紡績(後のカネボウ、2007年に会社消滅)の再建だった。武藤は27歳の若さで兵庫工場の支配人に抜てきされ、5年後には本店支配人を任される。そして1921年、53歳で武藤は社長に就任。30年までの9年間、63歳になるまで社長を務めた。

 武藤の活躍でカネボウの業績は急拡大し、国内の紡績会社を次々に傘下に入れながら、国内トップクラスの規模にまで成長を遂げる。また当時、紡績工場で働く女性の工員の待遇は「女工哀史」という言葉に象徴されるように劣悪なものだったが、武藤は「職工優遇こそ最善の投資なり」をモットーに「家族主義」と「温情主義」を実践する。こうした経営スタイルは、他企業の手本となり、日本的経営の基礎となった。

 今回紹介するのは「ダイヤモンド」1930年2月11日号に掲載された、「鐘紡引退所感」と題された武藤のインタビューだ。冒頭の記者の質問にあるように、武藤は自分の任期を「3年1期、最高3期」と定款で決めて、それに従って63歳で退任するに至ったのである。「前線に立って激務を鞅掌(おうしょう)する者は若い人でなければならない」と語り、50歳の津田信吾を副社長(その年に社長就任)に登用している。

 武藤はまた、「一人一業主義」についても語っている。カネボウに入社して以来、紡績業一筋で「日本の紡績王」とまで呼ばれる存在となった武藤だけに、その言は重い。

 ところが、武藤の後を継いだ津田は、第2次世界大戦下に海外進出を進め、兵器や飛行機の製造などにも業容を広げた。戦後は、武藤の息子である武藤絲治が社長に就任し、非繊維事業に進出する「グレーター・カネボウ計画」を打ち出し、その次の社長となった伊藤淳二は、繊維・化粧品・食品・薬品・住宅の5事業から成る「ペンタゴン(五角形)経営」を推進するなど、“一業”にとどまらない拡大を目指した。

 また、武藤は約40年間の経営経験を通じて最大の感想として「事業家は金を借りてはいかん」と答えている。周知の通りカネボウは2000年代に入り、経営悪化とそれを隠すために粉飾決算を繰り返していたことが明るみに出る。04年に産業再生機構入りした時点で、グループ全体の有利子負債は実に5567億円に達していた。

 経営不振に陥りながらも、内々の論理で改革が進まなかったのは、武藤が残した「家族主義」「温情主義」の弊害であるとの指摘もあるが、そこにだけ武藤の影響を持ち出すのは無理があろう。

 そして、インタビューの最後では、当時の大蔵大臣である井上準之助の金輸出解禁政策を強く批判している。この記事が掲載された1930年は、米国発の世界恐慌の真っ最中。井上蔵相は緊縮財政政策と金解禁という荒業を打ち出し、難局打開を図ろうとしていた。しかし武藤は「井上君は、金解禁を至極手軽に考えて、5、6カ月でやってしまった。実に乱暴です」と警告している。

 結局、井上の取った金解禁は輸出産業に壊滅的なダメージを与え、日本は昭和不況と呼ばれる深刻なデフレ不況に陥り、社会的危機を呼び起こした。その後、高橋是清蔵相による金輸出再禁止と積極財政によって昭和恐慌は克服されたが、軍事予算の抑制を唱えた高橋が暗殺されたことで日本は戦争と軍国主義への道を歩んでいくことになる。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

社長任期は3年1期、最高3期
退職規定を自ら作った理由

1930年2月11日号1930年2月11日号より

――貴下は、自分で自分の任期を定款で決めて、のっぴきならないようにして、断然、鐘紡を引退された。これは、深謀熟慮の結果と察せられますが、その理由や動機について、この際、所感を承りたい。

 あいにく、今日は、議会の解散を前にして(当時、武藤は衆議院議員も務めていた)、非常に取り込んでおりますので、遺憾ながら、ゆっくりお話しする時間がありません。ご質問の点だけを簡単にお答え致します。

 私の引退を重々しく見られるとむしろ恐縮致します。

 人間というものは、後から自分でいろいろの理屈をつけ、自分の行動を良くしたり、人が彩ってくれたりします。大概のことは、そう大した道理で動くものでなく、多くはふとした動機からやるものです。