書物編集担当者に仕事のし過ぎを諫められた文豪が、「君は私のことが何もわかっていない」と語った胸中とは(写真はイメージです) Photo:PIXTA

文芸春秋に入社して2018年に退社するまで40年間。『週刊文春』『文芸春秋』編集長を務め、週刊誌報道の一線に身を置いてきた筆者が語る「あの事件の舞台裏」。巨匠の凄みを名言とともに振り返る。(元週刊文春編集長、岐阜女子大学副学長 木俣正剛)

ライバル誌の連載のために
夜半まで残業するハメに!?

 私が松本清張先生の担当として可愛がっていただいた(と勝手に思っています)のは、色々な幸運がありました。実は、『文芸春秋』編集部の私の2代前の担当者は、担当してすぐ病に倒れ、長期病欠。次の担当者はわずか3カ月で新雑誌編集部に異動。次々と代わったのです。新任のさらに若い担当編集者(私)に対しては、清張先生としても、「今度の若いのはちょっと大切にしようか……」と思ったのではないかと感じます。

 ある日突然、「網走刑務所の扉のことを調べてくれ」という電話がありました。「おかしいな。文春での私の今の仕事は森鷗外の小説なんだけどなあ」と思いつつ、国会図書館で網走刑務所の詳細を調べます。

 著作権の問題から、コピーにも制限があります。もちろん、携帯で写メなどを撮れる時代ではありません。第一、ファックスさえほとんどありません。自分で重要な点を調べて、取材原稿に起こします。

 たとえば、「扉の高さは○○センチ。幅は○○センチ。材質は鉄ではなく木材で色は黒。油で拭いてあるので黒光りがしている。重さは何キロなので、1人で開けるのは大変だろう」などと、自分で見てきたように原稿に起こして、先生宅に持っていきます。

 もっとも、取材目的がわかっている場合は、調べ方はわりに楽で、その人物の風貌や性格など、大体小説に必要な要素はわかるのですが、今回は網走刑務所という、今まで清張先生からは聞いたことがない場所の、しかも「トビラについて」というわけのわからない注文です。