橘玲の日々刻々 2020年9月18日

「アメリカはディストピア、日本はユートピア」
経済格差の大きい欧米社会の驚くべき状況
【橘玲の日々刻々】

 新型コロナの影響を受けて、世界的に経済格差がさらに拡大するのではないかと危惧されている。アメリカ社会を揺るがしている一連の抗議行動も、黒人への「人種差別」に反対するだけではなく、その底流には自分たちの未来に対する不安や絶望があるのではないだろうか。

 今回は、そんな「格差社会」を論じた本を紹介してみたい。

「アメリカはディストピア、日本はユートピア」

 アメリカの経済学者リチャード・ウィルキンソンと疫学者ケイト・ピケットの共著『平等社会』(東洋経済新報社/2010年刊)は、経済格差の拡大がひとびとの健康、精神衛生、肥満、暴力、10代の出産、信頼などさまざまな指標を悪化させることを示して全英ベストセラーとなり、各国に翻訳されて大きな反響を呼んだ。続編である『格差は心を壊す 比較という呪縛』(東洋経済新報社)』では、それから10年後に世界の格差がどうなったのかを検証している。

 ウィルキンソンとピケットは、所得格差の問題として以下の5つを挙げる。

1) 社会的な格差問題を悪化させる
2) 社会的な融合を阻害する
3) 社会的な団結を損なう
4) 地位への不安を高める
5) 消費主義や自己顕示的な消費を増大させる

 これをひと言で要約するなら、「アメリカやイギリスのような経済格差の大きな国はなにもかもうまくいっていない」になるだろう。たしかに、新型コロナで露呈した「世界でもっとも経済格差の大きな国」アメリカ社会の矛盾と混乱は、「格差がすべてを悪化させる」という理論の正しさを証明しているように思える。

 しかしその一方で、ウィルキンソンとピケットは「格差の小さな国はうまくいっている」として、北欧諸国や日本を例に挙げる。2人によれば、「アメリカはディストピア、日本はユートピア」なのだ。

 ここで「ほんとうなのか」と思うひとがいるだろう。戦後日本はずっと「アメリカのようになりたい」と努力してきたし(最近はちがうかもしれないが)、北欧と日本はまったく異なる社会だとされてきたからだ。

 しかし、『格差は心を壊す』の冒頭に掲載された「不平等が大きい国ほど社会問題が悪化する」というグラフを見ると、たしかに所得の不平等と健康社会問題インデックス(平均寿命、信頼、精神障害(薬物・アルコール依存症を含む)、肥満、幼児死亡率、児童の算数・読み書き能力、刑務所収監率、殺人犯罪率、未成年出産、社会階層間移動などをベースに算出)はきれいに相関しており、所得の不平等がもっとも大きなアメリカの指標がとびぬけて悪く、所得の不平等がもっとも小さな日本の指標がいちばんいい。日本に近い国はスウェーデン、ノルウェー、フィンランドなど北欧諸国で、アメリカに近いのはポルトガルやイギリスだ。

 これは、著者たちに都合のいいデータだけを選んだのではないだろうか。だが、所得格差の大きな国ほど暴力犯罪が多発し健康状態が悪化することは、1970年代以降、多くの査読付き専門誌に発表された研究論文で示されているという。

 とはいえ、相関関係があるからといって因果関係があるとは限らない。「所得が不平等だから国民の健康状態が悪化する」のではなく、「不健康な国民が多いから所得が不平等になる」のではないだろうか。

 しかしこれも、不平等と健康状態悪化のどちらが先行しているかを判断する一連の基準が開発され、それを踏まえた数百に及ぶ研究から、「所得の不平等拡大と様々な健康社会問題の悪化の間には確かな因果関係が存在する」ことが明らかになったとされる。

 ウィルキンソンとピケットの「格差論」が広く受け入れられたのは、格差拡大が繁栄から取り残された貧困層だけの問題ではなく、富裕層を含む社会全体の問題だとしたからだ。

 当然のことながら、多くの社会問題は富裕層より貧困層に深刻な影響を与える。しかし、「格差拡大で二極化が進む」ということは、「格差が拡大すれば富裕層はよりゆたかで幸福になれる」ということではない。富裕層(高い教育を受け、高給の仕事につくひとたち)であっても、格差の大きな社会では暴力犯罪に怯えて暮らすことになる。それよりも、格差の小さな安全な社会で人生を楽しんだ方がいいのではないか、との提案には説得力がある。

 それに加えて本書では、所得格差がさまざまな社会問題だけでなく、心の問題を悪化させるメカニズムに注目している。欧米社会の驚くべき状況が報告されているので、すこし詳しく紹介してみたい。

「先進国では開発途上国よりも心の病の発症率が大幅に高い」

 アメリカ人に対して、わたしたちは「積極的」「陽気」「おおらか」などのイメージをもっているが、ウィルキンソンとピケットによれば、これは虚像にすぎない。なぜなら、「米国人の80%以上がシャイ(shyness/臆病)に悩んでいる」のだから。

 スタンンフォード・シャイネス・サーベイによると、「調査対象となった米国人の80%以上が、人生のある時点、つまり現在、過去、あるいは幼少期から現在までの全期間で、他人との接触にシャイだと答えている」。また3分の1以上が、これまでの人生の半分以上の期間でシャイ、約4分の1が自分を慢性的なシャイと見なし、いちどもシャイだと感じたことがない回答者はわずか7%だった。

 10代の米国人(13~18歳)1万人以上を対象にした「全米併存疾患調査――思春期世代の調査」で、まったく初対面の同世代と出会ったときの反応を聞いたところ、ほぼ半数が尻込みしたと答えている。また60%以上の両親が、自分の子どもをシャイな性格だと回答した。

 「パーティで他人と気楽に会話することができない」とか、「誰かが自分のことを噂していると考えただけで虫唾が走る」とか、さらには「スーパーのレジで店員相手に支払いすることさえパニックになる」「サングラスか帽子がないと出かけられない」というものまで、アメリカ社会で急速に「社交不安障害」が広がっている。精神科で向精神薬を処方された患者数からみると、1980年以降、アメリカでは社交不安に苦しむひとが総人口の2%から12%に増えたという。訓練を受けた調査員が18~75歳の米国人1万人を対象にそれぞれの自宅で1時間の面談を行なったところ、「46%が過去に精神障害の症状、生活に支障をきたす深刻な経験をしたことがあると答えている」との調査結果もある。

 米国心理学会の2017年調査によると、「80%の米国人が無力感、うつ、神経過敏、不安など複数のストレス症状を訴えている」とされ、ストレスの度合いを「1(全く感じない、あるいはほとんど感じない)」から「10(かなり深刻)」で自己診断させると、回答者の20%が8,9あるいは10の高レベルだと答えた。

 世界保健機構(WHO)の調査では、「先進国では開発途上国よりも心の病の発症率が大幅に高い」ことが明らかになった。21世紀はじめに行なわれたWHOの調査では、精神障害の生涯発症率はアメリカ55%、ニュージーランド49%、オランダ43%、ドイツ33%に対して、ナイジェリアは20%、中国は18%だった。

 生活水準はむかしよりずっとよくなっているはずなのに、なぜこんなことになるのか。ウィルキンソンとピケットは、格差が拡大する先進国では他人との比較を気にするようになり、それが社交不安やうつ病につながるのではないかという。

 ボランティアの腕に水ぶくれの傷をつくってその回復状況を調べた実験では、人間関係が良好でない被験者ほど傷の治りが遅い。風邪のウイルスが含まれた鼻薬を複数のボランティアに投与した実験では、同じような環境で友だちが少ない被験者は、対照群に比べて風邪をひく可能性が4倍も高い。こうした実験から、「友だちが少なくなると健康状態が悪化する」ことがわかる。

 これはヒトが徹底的に社会的な動物で、孤独=共同体から疎外されることが強いストレスになるからだろう。よく知られているように、ストレスは免疫や循環器系にさまざまな悪影響をもたらし、老化を加速させる。きわめて軽微なストレスでも、数カ月、数年も続けば、慢性疾患を引き起こし寿命が短くなることも示されている。

 年齢とともに血圧が上昇するのは当たり前だと思うかもしれない。実際、先進国の調査対象者の血圧の平均値は60歳代が20歳代に比べて12~15ポイントも上回っていた。だが定住的な農業の経験のない部族社会、たとえばアマゾンの熱帯雨林で狩猟採集生活を送るシングー族やヤノマミ族では加齢による血圧の上昇は見られない。同様に、閉ざされた環境で生活するイタリアの修道女を20年にわたって観察した研究では、食事の内容は周辺地域のひとたちとまったく変わらないにもかかわらず、いくら年齢を重ねても血圧は上昇しなかった。

 ストレスホルモンが急激に高まるのは「社会的評価(自尊心や社会的地位)」が脅威にさらされたときだ。他人が自分の行動に対してマイナス評価を下す可能性があるときは、そうでない場合に比べ、(ストレスホルモンである)コルチゾールの増加が3倍になる。

 ウィルキンソンとピケットは、先進国でうつや不安症が蔓延するのは、メディアやSNSによって「身体的な魅力や知性、余暇の過ごし方、皮膚の色、芸術的な趣味、消費の傾向などすべてが、序列の評価の点で大きな社会的意味を持つようになる」からであり、経済格差がこうした差異を拡張するからだとする。その結果、不平等な社会では平等な社会に比べて心の病を持つ人が3倍も多くなるのだ。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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