人間は、一人ひとり神が造った

 創造という考え方のポイントは、創造の前と後で、すべてががらりと変化することである。

(創造の前)神がいる
 ↓
(創造の後)神がいる
 +
 世界がある(天地、山や河、植物や動物、人間が存在する)

 このことを、肝に銘じてほしい。

 最初、神(アッラー)がただ存在するだけで、ほかには何も存在しなかった。神は寂しかったろうか。そんなことはない。神は完全で、欠けたところがなく、満足していたはずだ。

 それから、世界を創造した。天地が存在するのは、神が創造したから。天地が存在すべきだと、神が思ったからだ。山や河が存在するのは、神が創造したから。植物や動物が存在するのは、神が創造したから。人間が存在するのは、神が創造したから。神が、それらは存在すべきだ、と思ったからだ。

 このように、「世界は、神(アッラー)の意思によって、存在する」のである。山や河を見るたび、植物や動物を見るたび、「神がこれを創造したのだ」と思わなければならない。そして、感謝しなければならない。

 人間はどうか。人間ももちろん、神が造った。しかも人間は、一人ずつ、神に手造りされた。

 最初の人間は、アダムである。アダムは、「土」という意味。神が土をこねて、人間のかたちにし、息(つまり、生命)を吹き入れて、人間にした。イヴ(エヴァ)も、やはり神が手造りした。以上のことは、創世記2章に書いてある。(細かいことだが、創世記1章には、神は男女を造った、と書いてあるだけ。男性(アダム)を先に造った、とは書いてない。1章は2章と別系統のテキストなのだ。)

 神が手造りしたのは、人間だけである。創世記によると、ほかの動物は、言葉で命令するだけで造られている。アダムとイヴは、神の言いつけに背いて善悪の樹の実を食べてしまい、エデンの園を追放された。それから二人は結ばれ、カインとアベルの兄弟が生まれた。イヴは、ふつうのやり方で妊娠し出産した。

 カインとアベルは、神に造られたのか? それとも、人間から生まれたのか?

 人間から生まれたのに、間違いない。けれども、カインもアベルも、そのほか母から生まれる人間はひとり残らず、神が手造りした。そう、一神教では考える。人間から生まれるのは見かけだけ。誰が存在するのも、例外なく、神の意思によるのだ。

 神が造った存在を、被造物という。被造物にも、いくつもの種類がある。まず、物体(モノ)。太陽や月のような天体も、山や河のような地上のモノ(無機物)もある。植物や動物(有機物)もある。

 神は三日目に言う、「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種をもつ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」植物は、種をもつように造られている。植物は、地が生えさせるもので、草や木の一本一本を区別しない。

 神は五日目に言う、「生き物は水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」この命令で、水中の魚類は群れるようになった。一匹一匹は区別しない。鳥は、空を飛ぶようになった。一羽一羽は区別しない。

 神は六日目に言う、「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」陸上の生き物は、家畜/地を這うもの/野生動物、の三つのカテゴリーに分けて造られた。そして、一匹一匹は区別しない。それは、原子や分子がひと粒ひと粒区別されないようなものだ。

 このように、創世記によれば、被造物はすべて神の命令で存在し、神の管理下にある。それは群れ(生物学の用語では、種)として存在し、個物としては存在しない。

 唯一、人間だけは、個物として造られ、存在している。アダム、イヴがそうである。そして、カインもアベルも、それ以後生まれた人間は全員、一人ひとり名前があって、個性がある。同じ人間はひとりもいない。これが人間の特徴だ。「人間は、一人ひとり個性ある存在として、神に造られる」。

 神は、人間を、一人ひとり手造りする。これが一神教の、神と人間の関係の基本である。ぼんやり読むと、「人間は、一人ひとり個性ある存在として、神に造られる」ことは当たり前のような気がする。全然、当たり前でない。とても特別の考え方だ。

 ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、地球上の人類約七七億人の半分以上、およそ四〇億人がこのように考えている。一神教の考え方がどんなふうに特別か、しっかり理解しよう。

(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)