消えた超高収益企業・アラビア石油、「日の丸油田」を掘り当てた山下太郎の生涯(上)
 世界有数のエネルギー消費大国でありながら資源小国である日本は、石油などのエネルギー資源を常に海外からの輸入に頼らざるを得ない。日本人の手で油田を掘り当てたい――そんな「日の丸油田」の夢を実現した会社がある。アラビア石油だ。

 アラビア石油の創立者である山下太郎(1889年4月24日~1967年6月9日)は、大正初期にオブラートの製造販売で成功したのを皮切りに、ブリキや缶詰、硫安(硫酸アンモニウム)などの輸入事業で巨利を得る。1918年の米騒動の際には中国からコメを密輸して失敗するが、それで縁を得た中国では、南満洲鉄道(満鉄)の従業員社宅の建設・運営などで満州の開拓に大きく寄与し、「満洲太郎」と呼ばれるほどの活躍をした(ちなみにあだ名で呼ばれたのは同時代に活躍した山下太郎・山下汽船社長と区別するためでもあった)。

 戦後は一転して、海外での石油開発事業に乗り出した。度重なる交渉の末、山下は57年、サウジアラビアとクウェート両政府から、ペルシャ湾の海底油田の採掘利権を獲得し、アラビア石油を設立する。中東での石油採掘権を持つ日本初の石油会社の誕生に、国内の有力企業が支援を表明。油田開発にかかる資金調達の面では“財界の鞍馬天狗”と呼ばれた中山素平(元日本興業銀行頭取)が銀行団融資を取りまとめ、社長である山下の後ろ盾としては当時の経団連会長であった“財界総理”、石坂泰三(東芝社長などを歴任)が同社の会長に就任した。そして山下は「アラビア太郎」の異名を取るようになる。

 今回紹介する記事は、「ダイヤモンド」1964年5月11日号に掲載された山下による回顧録である。札幌農学校(現北海道大学)で、初代教頭であるウィリアム・スミス・クラーク博士の残した「少年よ、大志を抱け」という言葉に感化され、まさに開拓者精神を持ち続けた山下の半生が生き生きと語られている。長い記事なので前後編に分けてお届けする。前半は石油事業に携わる前、中国米の密輸のあたりまでである。

 この記事が掲載された64年時点で、アラビア石油は中東に46本の井戸を掘り、1本の失敗もなく新油田の開発に成功。当初8億トンと目されていた埋蔵量は24億トンに上るとみられていた。当時、日本の輸入原油量は6200万トン程度だったので、アラビア石油が所有する油田だけで、40年分の原油需要を賄える量である。まさに国家的事業だった。

 ちなみにその10年後、国税庁が発表する74年の法人所得番付では、例年トップの座を回り持ちしていた松下電器産業(現パナソニック)、日立製作所、トヨタ自動車を退け、アラビア石油がトップに立った。この頃のアラビア石油は日本一の高収益会社としてもてはやされ、利益額では石油元売り最大手の日本石油(現ENEOSホールディングス)をはるかにしのぐ存在だった。石油産業において、もうかるのは断然“川上”の原油生産であるということがよく分かる。

 ところがアラビア石油は、2000年に期限を迎えたサウジとの利権契約の延長に失敗、03年にはクウェートとの利権更新もかなわず、事業からの撤退を余儀なくされてしまう。そして13年、同社の石油開発事業部門とその人員はJX日鉱日石エネルギー(現ENEOS)に引き取られ、40年以上にわたった日の丸油田の歴史は完全に幕を下ろした。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

少年よ、大志を抱け!
心に根差したクラーク先生の教え

消えた超高収益企業・アラビア石油、「日の丸油田」を掘り当てた山下太郎の生涯(上)1964年5月11日号より

 私は、百姓の学校(札幌農学校:現北海道大学)で教育を受けて東京へ出てきた。それから何か事業をやろうとかかったのだから、メチャクチャだったわけだ。

 初めはアルゼンチンで農場をやろう、という夢を持った。そこで、大先輩の伊藤博文を訪ねた。

 むろん“夢のまた夢”で、これは実現しなかった。

 私に、そんな大それた夢を抱かせてくれたきっかけは、あの有名なウィリアム・クラーク先生の“少年よ、大志を抱け”という教えだった。