橘玲の日々刻々 2020年11月5日

「差別の科学」として忌み嫌われた「現代の進化論」が、
唯一残された「希望」へと変わった
【橘玲の日々刻々】

 4年間のトランプ政権下で、リベラルな知識人のあいだに「このままではアメリカ社会は分裂し、崩壊と破滅が待っているだけだ」との悲観論が広がった。こうした絶望は、新型コロナで露呈された経済格差や人種問題、今回の大統領選をめぐる混乱によってさらに深まっている。

 そんななか、ニコラス・クリスタキスの『ブループリント 「よい未来」を築くための進化論と人類史』(News Picks)は、「私たち一人ひとりが自分の内部に「善き社会をつくりあげるための進化的青写真(ブループリント)を持っている」とのポジティブなメッセージを送る。原題は“BLUEPRINT : The Evolution Origins of a Good Society(青写真 善き社会の進化的起源)”。

 クリスタキスは『つながり 社会的ネットワークの驚くべき力』(講談社)などの著作で知られるネットワーク理論の第一人者で、新型コロナの感染拡大ではSNSでの積極的な発言が注目された医学者でもある。『ブループリント』は、進化社会学という新たな学問領域の格好の道案内にもなっている。
 

「共同体のなかで生存・生殖する能力」こそが「遺伝子に暗号化されている普遍的特性」

 クリスタキスは『ブループリント』で、ヒトの本性の暗い側面ばかりに注目する風潮に警鐘を鳴らし、それは「標高1万フィート(約3000メートル)の高台に立って2つの丘を調査している」ようなものだという。このとき、一方の丘は高さ約300フィート(約90メートル)、もう一方の丘は高さ約900フィート(約270メートル)だとしたら、3倍ものちがいはものすごく大きなものに思えるだろう。しかし、この2つの丘の高さのちがいにばかり気をとられていると、どちらも標高3000メートルの高台にあることを見逃してしまう。この高台こそがブループリント、すなわち「遺伝子に暗号化されている普遍的特性」だ。

 クリスタキスは、徹底的に社会的な動物として進化したヒトの本性を「社会性一式(ソーシャルスイート)」としてまとめている。

1 個人のアイデンティティを持つ、またそれを認識する能力
2 パートナーや子供への愛情
3 交友
4 社会的ネットワーク
5 協力
6 自分が属する集団への行為(すなわち内集団バイアス)
7 ゆるやかな階級制(すなわち相対的な平等主義)
8 社会的な学習と指導

 ヒトは熱帯から極寒の地まで地球上のあらゆる場所に移住し、独自の文化をつくりあげてきた。それにともなって(肌の色のような)異なる外見や異なる病気への耐性、そしておそらくは異なる認知的・性格的な特徴を進化(遺伝と文化の共進化)させてきたが、それにもかかわらず、どのような環境でも変化しない共通の要素がひとつだけある。それは「他人の存在」だ。

 クリスタキスは、この向社会性(共同体のなかで生存・生殖する能力)こそが「標高3000メートルの高台」であり、私たちを根底で規定する「青写真」だという。そのことが難破事故で孤島に漂着した船員、宗教集団や1960年代のヒッピー・コミューンからネットワーク上に構築された「架空の社会」にいたるまで、あるいはゾウ、チンパンジー、イルカなどの社会も含め、遺伝学、生物(動物)学、人類学、社会学などの該博な知識を縦横無尽に駆使して描かれていく。

 その魅力的な叙述は実際に著書を読んでいただくとして、結論のみを簡単にまとめるなら、向社会性は「愛情」「友情」「互恵性」によってつくられる。

 このうち「愛情」は、一夫一妻制の哺乳類だけでなく一部の鳥など、子どもを守り育て、配偶者と強い絆をつくらなければ「利己的な遺伝子」を将来に受け渡せない種に広く見られる特徴だ。こうした種で愛情がどのように進化したのかは、いまでは脳内の神経伝達物質オキシトシンの作用として解明されつつある。

 「互恵性」は社会的な生き物の特徴で、血吸いコウモリが空腹のときに血を分け与えてくれた(血のつながらない)仲間を見分けてお返しをするように、過酷な環境のなかで生き延びる戦略として進化した。これについては社会学で多くの研究があり、「相手が協力したら自分も協力し、相手が裏切ったら自分も裏切る」しっぺ返し戦略が有名だ。

 もっとも興味深いのは「友情」で、“無二の親友”は血縁者ではなく、それにもかかわらず打算を超えた深い交友をするのだから、「愛情」でも「互恵」でも説明できない。

 だが「友情(らしきもの)」は、チンパンジーのような近縁種だけでなく、ゾウやイルカでも見られるという。これは、知能の高い社会的動物では共同体内の利害が複雑になるため、家族関係や互恵的関係だけではじゅうぶんな安全保障を確保できず、ある特定の同性の個体と「特別な関係」を持つことが生存・生殖に有利になったからだろう。

 ヤクザの世界では義兄弟の絆は「血よりも濃い」とされるし、これは中国の「朋友」も同じだ。友情が文化を超えて普遍的に観察される「ヒューマン・ユニヴァーサル」であることは、社会的な動物であるヒトが「愛情空間」のまわりに「友情空間(俺たち)」をつくることで生き延びてきたことを示している。

 問題は、「俺たち」は必然的に「奴ら」とセットになることだ(「奴ら」がいなければ「俺たち」もなくなる)。これが「内集団バイアス」で、現代社会にさまざまな軋轢をもたらしている。

 だがクリスタキスは、こうした敵対感情は制御不可能なものではなく、徐々に「協力」の輪を広げていくことができるはずだと述べる。「私たちは本来、「善き社会」をつくることができるよう進化してきた」というのだ。

必要とされているのは「還元主義と全体論の両方を受け入れる」こと

 ダーウィンの進化論は、DNAの二重らせんの発見によって大きく発展し、いまや生命だけでなくこころをも理解する強力な科学になっている。進化生物学、進化心理学、行動遺伝学、脳科学などの「現代の進化論」は、これまで哲学や心理学・社会学のような人文・社会科学によって扱われてきた領域を急速に浸食している(拙著『読まなくてもいい本の読書案内』ちくま文庫)。

 しかしそれにもかかわらず、いまだに生物学と人間行動を統合することには強い抵抗がある。クリスタキスは、「そこには4つの思想体系がからんでいる」という。それが「実証主義」「還元主義」「本質主義」「決定論」だ。

 実証主義は「科学的研究を通じてしか真実は知りえず、そのためには立証可能で再現可能なかたちで論理と数学を自然界に適応しなければならない」という主張で、社会科学はずっと「実証主義の要求を満たしていない」すなわち「科学ではない(あるいは科学として半人前)」との批判に苦しめられてきた。

 これは「現代の進化論」も同じで、ヒトの社会的な本性などを議論する際に「課せられるハードルが高くなりすぎる」とクリスタキスはいう。進化を物理学のように論じることはいまはまだ困難だが、だからといって「非科学的」と一蹴してしまうのでは、そもそも実証的な議論すらできなくなる。

 しかしそれより問題なのは、人文科学(哲学)や社会科学(心理学)の側に、実証主義をまるごと拒絶する根強い風潮があることだ。それが、「人間の内的状態は科学的に調べられるものではなく、直感や解釈、ことによっては宗教も含めた、科学ではない手法で理解しなければならない」という態度だ。その場合は必ず、20世紀初頭の優生学運動や、人体実験の野蛮な歴史が引き合いに出される。

 クリスタキスは、こうした批判には正当なものがあると認めながらも、だからといって「世界を知るのに科学がまったく役に立たないなどということはない」という。「魂」についてはともかく、いまでは感情・欲望や思考だけでなく、道徳や美すらも進化的起源とともに語られるようになり、脳科学や行動遺伝学などさまざまな技法によって探求されている。

 もちろんそうした「科学の実践」には限界があるだろうが、「まったく観察できないよりも、少しでも観察できたほうがましだ」。「現代の進化論」に対する批判は、おうおうにして「ガリレオは初歩的な望遠鏡ではなく、最初から電波望遠鏡を使うべきだった」というような難癖にちかいものになる。

 還元主義とは「複雑な現象や高度な現象を、その部分部分に還元すること」で、脳の仕組みや人間社会のような複雑なものには適用できないとされる。単純なものから複雑なシステムが生まれるには「創発」という過程が必要だが、全体を部分の総和ととらえる還元主義はそのことを無視しているというのだ。

 物理学者フィリップ・アンダーソンは、「あらゆるものを単純な基本法則に還元することができたとしても、それらの法則を起点にして宇宙を再構成できるわけではない」という。「系が軸に沿って拡大すると――つまり物理的なものが一つにまとまると化学的なものになり、生物学的なものが一つにまとまると社会学的なものになるように――その系は新しい創発的な特性を獲得する」のだ。

 ネットワーク論の権威であるクリスタキスは、もちろんこのことをよく理解している。だがそれでも、全体論のみを重視して還元主義を否定することは、科学として生産的ではないという。「集合的な現象に進化的な基盤があることを受け入れれば――たとえそれが還元主義的な試みであろうとも――協力や社会的ネットワークのような創発的な資質がいかにして生じうるのかが見えてくる」からだ。

 その意味で必要とされているのは、「還元主義と全体論の両方を受け入れる」ことだ。社会の遺伝的な基盤(ブループリント)に注目するのは、ただの還元主義ではない。それは、「社会生活についての真に全体的な理解を得るための土台」をつくる試みなのだ。


作家・橘玲の切れ味鋭い見解が毎週届く!
有料メルマガの
無料お試し購読受付中!
お試しはこちら

海外投資必勝マニュアル&本

海外投資のノウハウが凝縮! ここで紹介しているコンテンツ、書籍はすべて、ネットから購入が可能です。さらに「海外投資実践マニュアル」は「海外投資を楽しむ会」の会員になれば割引価格で購入可能です。

作家・橘玲のディープなメルマガ
発売即重版決定! 橘玲の最新刊【幸福の「資本」論】発売!
橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
橘玲×ZAiONLINE海外投資の歩き方
作家・橘玲がメルマガ配信を開始!
subcolumn下影

ページのトップに戻る

本WEBサイトに掲載している全ての記事およびデータについて、その情報源の正確性・確実性・適時性を保証したものではありません。本サイトの提供情報を利用することで被った被害について、当社および情報提供元は一切の責任を負いませ ん。万一、本サイトの提供情報の内容に誤りがあった場合でも、当社および情報提供元は一切責任を負いません。本サイトからアクセス可能な、第三者が運営するサイトのアドレスおよび掲載内容の正確性についても保証するものではなく、このような第三者サイトの利用による損害について、当社は一切責任を負いません。また、併せて下段の「プライバシーポリシー・著作権」もご確認ください。