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この連載では、著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。(イラスト:塩川いづみ)
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら

「あいつが悪い! 許せない!」と怒り出す前に知っておきたい悪の本質Photo: Adobe Stock

[質問]
 本当の意味での「悪いこと」というのはあるのでしょうか

 先日、学校の友人にかなり一方的にひどいことを言われ、とても傷付いたのですが、同時に、私を傷つけた相手は本当に悪いのだろうか? と思いました。これはそういうことを相手に言わせた原因が私にあるとかいう話ではなく、他人を傷つけたり不利益を被らせたりすることと何かが悪であることは関係がないのではないか、ということです。

 また本人のいないところで陰口を言うのはいけないことだ、とか死んだ人の悪口を言うのはいけないとか言われますが、これも誰も不利益を被っていないのに悪いこととされています。そう考えると、いままで普通に使ってきた悪いという言葉の意味がよくわからなくなりました。悪いって一体なんなんでしょうか。

[読書猿の回答]

何を悪とみなすかは、集団での「身分証明」となる

 悪とは、ヒトが否定的に評価されるものにつけた呼び名です。何を悪とするかは時代や文化や集団によって様々ですが、我々が知るどの文化も善と悪の区別を持っているようです。

 このように、ヒトがいるところにはいつも悪と呼ばれるものがありましたが(悪の普遍性)、何を悪とするか場合によって異なること(悪の多様性)にヒトは早くから気付いていました。

 これらのことから「悪とは何か?」、様々なものが悪と呼ばれるがそれらすべてに共通する「悪の本質」のようなものがあるのか、ということが古くから考えられてきました。しかし、こうして悪の本質を追求することは、人類共通の結論の行き着くよりも、やはりそれぞれの社会や文化における悪の表明に留まりました。

 その後、悪の普遍性と多様性を説明するために「ヒトはなぜ悪を必要とするのか?」という問いが立てられました。この問いの答えは「ヒトが集まりを作り維持するため」、もう少し詳しく言えば「何かを悪と名指すことで、我々(集団に属する者)はいかなる者であるべきかを示し共有するため、そうして《我々》と《我々以外》を繰り返し定義しなおすため」です。

 この含意をもう少しかみ砕いて説明してみましょう。

この仮説は、何を悪とみなすかがその人があの集団の属するか否かを示す一種の「身分証明」となるというものです。

 何を悪とみなすかが「身分証明」に使えるのは、偽装しにくいからです。悪とみなすものと遭遇した場合、ヒトは冷静に損得勘定をしてから「計算の結果、悪だと判明しました」というよりも、「これは許せん!」といきなり感情のスイッチが入ることが多いです。悪が、広げると道徳が、感情と結びついていることは重要です。感情を偽装することは難しく、また強烈な不協和が生じるためコスト高い。つまり感情を偽装するもっともコストの低い方法は、実際にその感情になることです。

 しかもこの悪への怒り(義憤)は伝染性です。複数の人たちが、同じ事象を悪と見なし怒りを表明することで、感情体験を共有することで一体感を感じるとともに、また「何を大切に思い、何をあってはならないことと考えるべきななのか」を再確認して、我々は集団としてのアイデンティティを再定義するとともに生きたものにします。

 この悪への集団的義憤というヒトの仕様は、群れをつくるサルだった頃に進化したものだと思われます。集団を維持しようとする際に最大の障害となるフリーライダーへの対策になっているからです。フリーライダーがもたらす損害は、個々には軽徴ですが、これを放置するとフリーライダーとなる者が増殖し、集団は維持できなくなります。利害関係がほとんどないにもかかわらず発動する仕掛けが必要です。これが直接の利害とは関係ない悪がある理由だと思われます。

 ヒトの文化が作り上げた様々な祭儀は、この仕様をハックすることを基礎とします。

 この仮説はまた、悪の本質を探究する人々を悩ませた、悪の多様性を説明します。まず集団が異なれば、異なる身分証明があり得ます。悪の中には多くの集団で採用されるものもあれば、ある特定の集団内でのみ悪とされるものもあります。よその集団からすれば、実にくだらない(取りに足りない)」と思われる悪が、その集団では真面目で深刻なものであり得るのは、そのためです。

 以上の悪についての説明は、悪の本質を追求するかわりに、悪の機能に注目したものですが、多くの人を満足させないかもしれません。例えば次のような批判が考えられます。

 何かを悪と見なすことが集団の再生産につながるということは、悪とは結局のところ集団ごとのローカルな悪に過ぎなくなってしまうではないか。それでは、例えば許しがたい犯罪などについても、「我々にとっては悪だが、あいつにとってはそうではない」ということにもなりかねず、悪は集団や人それぞれとなり、結局何かを悪であると責めても「おまえのなかではな」とスルーされ、悪ということはほとんど無意味になるではないか、と。

我々は、悪を更新することができる

 これに対しては次のように応じることができるでしょう。

 誰もが認める「文句のつけようのない悪」は望むべくもないが、悪を持たないヒトはいません。そして私たちは常に(重なり合うことあればないこともある)無数の集団に多重に所属するだけでなく、ある集団から抜けたりある集団に加わることを続けています。

 同様に、我々が悪と見なすものもまた更新し続けます。誰かの説得や何らかの出来事を受けて新たな悪を見出し、あるいは用済みの悪を捨てることもあるでしょう。

 我々は悪を改訂することで、集団のあり方/範囲/メンバーを組み換え、より広く受け入れられる悪を鋳造することができれば、それだけ大きな集団を作り出すことができます。

「何を悪と見なすか」は、集団の新参者であるうちは先人から押し付けられることが多いでしょうが、実のところ我々がどんなことを望ましいものと望み、どんな人と共にありたいか願うことのすべてに、つながっています。

 我々には、あてがい扶持に悪を押しいただくだけでなく、それぞれの悪について考え議論し改訂していく可能性があります。