パブロフのイヌの実験では、ベルの音を聴かされてからエサを与えられることを繰り返したイヌは、ベルの音だけで唾液を出すようになった。これが「条件付け」だが、同じことを人間で試した研究者がいる。それも、同性愛者を条件付けして「治療」しようとしたのだ。その精神科医の名はロバート・ガルブレイス・ヒースで、論文は1972年に著名な学会誌に発表された。
ヒースは、自らの性的志向に苦しむ男性(24歳)の脳の快感回路(報酬系)に電極を埋め込み、研究室に2時間分の料金を払った娼婦を呼び(これはルイジアナ州検事総長の許可を得ていた)、男が全裸の娼婦に触れたり、勃起したり、性交したりするたびに快感回路を刺激した。こうして異性愛と快感を条件付ければ、同性愛は「治療」できると考えたのだ。
この実験は「マッドサイエンティストの愚挙」としてしばしば紹介されるし、私もそう思っていた。だがこれは事実の半分でしかないようだ。ヒースが開発した「脳深部刺激療法」はいま、「最先端医療」として復活を遂げているのだ。
デンマークの科学ジャーナリスト、ローン・フランクの『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』(文藝春秋)は、ヒースの生涯を描くと同時に、脳深部刺激療法の現場を取材したとても興味深いノンフィクションだ。原題は“The Pleasure Shock: The Rise of Deep Brain Stimulation and Its Forgotten Inventor(快感ショック:脳深部刺激療法の興隆とその忘れられたイノベーター)”。

ヒースはきわめてまっとうな科学者で「ヒューマニスト」だった
この本にはふたつの驚きがある。ひとつは、脳深部刺激が現在ではパーキンソン病の治療法として確立された(日本の病院でも行なわれている)ばかりか、うつ病から依存症までさまざまな精神疾患で高い治療効果を示していること。もうひとつは、その悪評にもかかわらず、ヒースがきわめてまっとうな科学者で「ヒューマニスト」だったことだ。
1950年代当時、統合失調症など重篤な精神病への標準的な治療は前頭葉を外科的に切除するロボトミーで、患者たちは「人間倉庫」とでもいうべき劣悪な環境に放置されていた。そんな精神医療の現状に憤激していたヒースは、名門コロンビア大学から三顧の礼でルイジアナのテューレン大学に迎えられ、州の精神医療に大きな権限をもつようになると、積極的な改革に乗り出した。患者たちをベッドにしばりつける「大きな檻」と化していた慈善病院の個室を増やし、患者を拘束から解き放ったのと同時に、ロボトミーに変わる「より人間的な」治療法として脳深部刺激の研究を始めたのだ(抗精神病薬が登場するのはその後だ)。
独創的な実験によって一躍時代の寵児となったヒースだが、時代の変化によって、70年代になると「ナチスの人体実験と同じ」とのはげしい批判を浴びることになる。だが決定的だったのは、「統合失調症の原因はタラクセインという血液中の物質」とする研究が「エセ科学」とされたことで、この失態によって学界から無視され忘れられていく。だがヒースの汚名にまみれた人生を追っていくなかで、フランクは驚くべき事実を次々と発見する。
じつはヒースは、研究人生の最後で「タラクセイン仮説」を自己免疫疾患へと発展させていた。この仮説も当時は一顧だにされず嘲笑の的になったが、近年になって、「慢性的炎症や、ある種のサイトカインの過剰産生や、全般的免疫反応の異常を伴う統合失調症の症例」が次々と報告されるようになった。うつ病や統合失調症と脳の炎症(自己免疫疾患)の関連は、いまや神経科学の最先端の領域になっている。――早くも1967年に、ロバート・ヒースとその共同研究者アイリス・クルップは、統合失調症患者の脳組織から健常者には見られない自己抗体を発見していた。
「マッドサイエンティスト」のレッテルを貼られ、精神医学の歴史のなかで忘却の彼方に追いやられたヒースは、脳深部刺激療法を開発し、精神疾患と自己免疫疾患の関係を提唱したことで、現在の脳科学・神経科学や精神医学に半世紀も先行していたのだ。
フランクが埃の積もった歴史資料からヒースの業績をよみがえらせる過程は、ミステリー小説のような出来事もあり(博士号をもつ生化学者だと思って雇った男がじつはマフィアのメンバーだった)、まさに「事実は小説より奇なり」なのだが、それは本を読んでいただくとして、ここでは「脳深部刺激療法の復活」についてまとめておこう。興味をもつ読者もきっと多いにちがいない。
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