新貝康司元JT副社長・新貝康司氏 Photo by Toshihiko Usami

数々の功績を残したトップリーダーたちは、「ネクストリーダー」に就任した際、何を考え、どう行動していたのか。連載第1回は、元JT副社長の新貝康司氏にネクストリーダーに必要な心得を聞く。JT在籍中は、JT America Inc.社長として米国バイオ・製薬スタートアップとの提携を次々と進め、JT CFO、JTインターナショナルの副CEO兼CFO、JT代表取締役副社長兼副CEOを歴任。英国ベースのグローバルたばこ企業ギャラハー社を2兆2500億円で買収し統合を成功させるなど、海外の大型M&Aで実績を上げた新貝氏は、リーダーとして国籍や価値観の異なる組織をどのようにまとめ上げたのか。

目指していた研究の道ではなく
専売公社(JT)への入社を決めた理由

 私は、もともと電子工学を専攻し研究者やエンジニアを目指していましたが、修士課程を修了した後、JTの前身である日本専売公社に入社しました。なぜ専攻した研究の道に進まなかったのか。ひとことで言えば「人とともに何かを成し遂げるという仕事をしたかったから」ですが、それにいたるには私の子ども時代の経験や性格が大きく影響しています。

 1つ目は、児童合唱団や舞台に出演していた経験です。小学生の頃は児童合唱団で歌い、中学1年生の1968年に大阪の梅田コマ劇場で越路吹雪さん、宝田明さん主演のミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」が上演されたときには、オーディションに合格してトラップ一家の次男クルト役を演じました。そのとき、出演者だけではなく、オーケストラや舞台の裏方さんなど、さまざまな人々がそれぞれの役割を果たすことで、ひとつの舞台・公演ができ上がることを知ったのです。

 余談ですが、宝塚出身の大女優であった越路吹雪さんが、とても親しみやすく、謙虚で、他の人への思いやりにあふれた人であったことは、個々の場面を含め今に至るまで忘れることができません。ひとかどの人物の神髄を垣間見ることができたことは大切な記憶です。

 さて、人前で歌えたからといって、私は外向的な性格の持ち主だったわけではありません。用意された役柄や歌うべきフレーズのなかでなら、そこそこ役割を果たすことができましたが、小学5年生まで、普段はまったくのシャイで奥手な少年でした。

 小学生の頃、電気いじりが好きでそれに熱中し、集中すると声をかけられても気がつかず返事もしない。「自己中心な人間だ」と勘違いされることもよくありました。そして、そう思われたかもしれないと意識すると、余計に固くなって周りの人とうまくコミュニケーションをとれないようなところがありました。それに加え、普段はボーっとしていたようで、打っても響かないようなところがあり、「真空管」(電源を入れてもすぐに作動しないとの意味)というあだ名をつけられたこともあります(笑)。だからこそ誤解されたくないとの気持ちが強くなり、余計に他人ときちんと関わることを志向したという面があります。これが2つ目の理由です。

 また、大学・大学院には突き抜けた素質を持つ人がたくさんおり、自分はひとつの分野に絞ってそれだけをとことん追求するのは向いていないと思うようになりました。その一方で、研究室の仲間たちからは、私が社会ニーズにかかわる視点から技術の応用の可能性を話したりすると、「分かりやすい」「おもしろい」と言ってくれることがよくありました。そのため、さまざまな人の力を、うまく機能するように組み合わせることの方が向いているのではないかと思うようになったのです。

 最後に、研究の道に進まなかったもうひとつ大きな理由は、高校生のときに友人をがんで亡くしたことでした。あっという間の死だったのです。痛切に感じたことは、人の命はこんなにはかないものなのかということ。ならば、自分が死ぬときに、せめて精いっぱい生きたいい人生であったと思いたい。人生の岐路での選択は絶対に自分で決めると心に誓いました。