タラ・ウェストーバーの『エデュケーション』(早川書房)は、ビル・ゲイツやミシェル&バラク・オバマが絶賛したことで、全米で400万部のベストセラーとなった。
中西部アイオワ州の片田舎に生まれた少女は、きわめて特異な環境で育つことになる。両親は厳格なモルモン教徒で、とりわけ父親は「サバイバリスト」と呼ばれる極端な原理主義者だった。

サバイバリストは明日にも「終末」が訪れてキリストが再臨すると信じている
サバイバリストの特徴は、政府は陰謀組織(ダークステイト)によって支配されている信じ、いっさいの公共的なものを拒否することだ。これは教育だけでなく、医療や社会保障のような公共サービスも含まれる。
その結果、タラは小学校から高校まで、いちども学校に通ったことがなかった。こうした子どもは「ホームスクーリング」によって自宅学習していることになっているが、親から習ったのはモールス信号だけだった。
アメリカではホームスクーリングの権利が広く認められているが、これは教育の多様化というよりも、保守的な宗教原理主義者(聖書に反する進化論などを子どもに教えたくない親たち)への配慮で、すくなくともタラの場合は、家庭でどのような教育が行なわれているのか、公的機関による確認はいっさい行なわれていない。
もうひとつのサバイバリストの特徴は、明日にも「終末」が訪れてキリストが再臨すると信じていることだ。彼らの世界観は映画『マッドマックス2』(あるいはマンガ『北斗の拳』)そのもので、子どもにモールス信号を教えるのは、世界の終わりがきて電話やインターネットなどがすべて使えなくなったあとでも、自分たちだけは交信できるようにするためなのだ。
タラは7人きょうだい(男の子5人、女の子2人)の末っ子で、一家は廃品処理と建築業で生計を立てていた。母親は自然分娩の助産婦の助手をしたり、自家製のハーブ薬をつくったりしていた。タラの家庭については、次のように書かれている。
父は政府に頼ることが何より嫌いだった。いつか、私たちは政府の枠組みから完全に外れるのだと言っていた。お金を集めたらすぐにパイプラインを建設して山から水を引き、そのあとの農地全体にソーラーパネルを設置するのが父の計画だった。そうすれば、私たち以外の世の中の全員が水たまりから泥水をすすり、暗闇のなかで生活するようになったとしても、水と電気を「世界の終わり」まで確保することができる。母はハーブに詳しかったから、私たちの健康管理をすることができるし、もし助産婦の仕事を学んだら、孫が生まれるときには、出産を手伝うことだってできる。
両親は医療を信用していなかったので、タラは学校だけでなく病院に行ったこともなかった。あらゆる病気はホメオパシー(症状を引き起こす成分を繰り返し希釈した水薬「レメディ」)とハーブによって治療できると信じていたのだ。
タラの家には電話がなく、父親は運転免許の更新をせず、車検は受けず自動車保険にも加入していなかった。政府が発行する貨幣も信用せず、くしゃくしゃに握りしめた20ドル札をタラに見せて、「こんな偽物は金じゃない。“忌まわしい日”が来たら、こんなもの、役にたちはしない。人びとは100ドル札をトイレットペーパーがわりにするような日が来るんだ」といった。
ある日、父親は納屋の隣に掘削機で穴を掘り、そこに1000ガロン(3785リットル)も入るタンクを埋めてシャベルで土を覆いかぶせ、周囲に注意深くイラクサを植えた。かぶせたばかりの土にアザミの種を蒔いて、成長させてタンクを隠すようにした。そして帽子のつばを上げ、きらきらと光るような笑顔を見せ、「世界の終わりが来たら、燃料を持っているのは俺たちだけだ。誰もが靴の裏を焦がしているときに、俺たちは車で移動することになる」と娘に教えた。
1999年12月31日、世界じゅうのコンピュータが誤作動する「Y2K問題」をきっかけに「世界の終わり」が来るとされた。その日、タラの一家はずっと、(終末を見学するために購入したばかりの)テレビを息を詰めて観ていたが、なにも起きなった。1月1日がありきたりに過ぎると父の魂は壊れてしまい、絶望にうちひしがれ、何時間もテレビの前に座って過ごすようになった。
高校までいちども学校教育を受けたことがないにもかかわらず、タラはACT(日本でいう大検)に合格してモルモン教徒のためのブリガム・ヤング大学に進学するが、そこで父親の言動が双極性障害(躁うつ病)に驚くほど当てはまることを知る。
アメリカ国民の双極性障害の有病率は世界最高の4.4%で、世界のほかの地域の2倍近くに達する。タラの父親がこの「25人に1人」の精神疾患で、それによって家族が「カルト空間」に閉じ込められてしまった可能性は高いだろう。
【参考記事】
●「アメリカ人はカルト空間に閉じ込められている」大統領選の「異常」な事態こそが”アメリカらしさ”
タラは優秀な学業成績を認められ、ケンブリッジ大学に留学して哲学の修士号を、ハーバード大学で歴史学の博士号を取得する。そのサクセスストーリーと、奇妙な(そして痛々しい)家族の物語は本を読んでいただくとして、ここではタラの父親にとりついた「終末論」について考えてみたい。
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