なので、今、足りないものを挙げつらねて、「あれもほしい」「これもほしい」という気持ちは、まったくありません。

 なぜなら、たくさんのものをいただいているのに、「あれをよこせ」、「これをよこせ」というのは、どうも違うと思うのです。

希望は、人間の向上心からくるものなのか?

「夢」や「希望」という言葉を検証してみます。

「夢」や「希望」というのは、もしかすると…、
 足りないものをあれこれ挙げつらねて、
 もっとほしい、まだまだほしい、
 手に入れたいと言っていること
 にほかならないのかもしれません。

希望という「聞き心地のよい言葉」で、実は、私たちは、欲望をかきたてられ、要求を宇宙に向かって突きつけるのがいいことだ、とずっと洗脳させられてきたのかもしれません。

 それとは逆に「今いただいているものに感謝」という概念があちこちに入り込んでくると、「夢」や「希望」というものが、いちじるしく減っていくことに気がつきました。

 人間は、「今、いただいているものに気がつき、感謝をはじめる」と、あれがほしい、これがほしいという気持ちが、いちじるしく減っていくようなのです。

「でも、人間には向上心が必要ではないのか」と言う人がいます。一般的にいわれる「向上心」というものは、本当に必要なのでしょうか?

「あれをよこせ、これもよこせ、あれもほしい、これもほしいと言っている人間の向上心」というものと、「あれに気がついて感謝」、「これに気がついて感謝」、「まわりの人に感謝」、「天上界の方々に感謝」をしている人の向上心と、どちらが本当の向上心なのでしょうか。

 世の中の出来事というのは、1人でできることなどは、たぶん、ひとつもないのではないかと思います。

すべてのことは全部、自分以外の方々のおかげで成り立っているそこに気がついて感謝することのほうがむしろ、人間として向上することなのかもしれません。

 自分の「我」で、自分の「意思」で何かを手に入れたいと思うことが、はたして向上心といえるのかどうか、よく考えてみたいところです。

もうひとつの幸せ論を実践する1%の人々

 そうやって、40年ほど、宇宙のしくみ、構造などに興味を持ち、研究を続けてきましたが、その結果、わかったこと。

 幸せというものは…、
今、足りないものを探して、手に入れることではなくて、「自分がすでにいただいているものに感謝し、自分が恵まれていることに気がつき、嬉しい、楽しい、幸せ…、と生きていること」
なのです。そして、そのために「実践」することは…、

思いを持たず、よき仲間からの頼まれごとをただやって、どんな問題が起こっても、すべてに感謝する(受け入れる)ことであり、そ・わ・かの法則(掃除、笑い、感謝)を生活の中で実践することであり、ありがとうを口に出して言い、逆に不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わないことなのです。

 すると、すべての問題も出来事も、幸せに感じてよき仲間に囲まれることになり、喜ばれる存在になる、これこそが「人生の目的」であり、「幸せの本質」なのです。