「絶望死の原因は貧困でも経済格差でもなく、学歴(教育)格差」
なぜこんなことが起きたのか? 誰もが真っ先に思いつくのは「経済格差の拡大」で、アメリカ社会が先進国のなかでもっとも貧富の差が大きな国であることは繰り返し指摘されている。
[参考記事]
●「アメリカはディストピア、日本はユートピア」経済格差の大きい欧米社会の驚くべき状況
だがディートンとケースは、データからはこの「経済格差=諸悪の根源説」は支持できないという。これが本書でもっとも論争的なもうひとつの主張になる。
単純な事実として、アメリカにおける所得の不平等が著しく拡大したのは1970年以降だが、この時期はアメリカ社会で死亡率が急減し、平均余命が急速に延びはじめていた時期にあたる。経済格差の拡大と不平等が「社会全体」の健康に害を与えるのなら、平均余命は短くなるはずだが、そのようなことは起きていない。
さらにアメリカの州ごとに絶望死を比較すると、ニューヨークやカリフォルニアのように「ゆたかだが不平等の大きな州」で少なく、ラストベルト(錆びついた地帯)と呼ばれる「貧しいが不平等はさほど大きくない州」で“エピデミック”が広がっている。「経済格差が絶望死の原因」とすると、この事実が説明できない。
「貧困」もまた、絶望死の主犯と考えることはできない。アメリカ社会における(貧困ライン未満の所得で暮らす)貧困世帯の割合は1990年代を通じて減っており、2000年には総人口の11%まで下がった。絶望死はまさにこの期間に増えているのだから、貧困とはまったく相関していない。「収入は、仕事、社会的地位、結婚、社会的生活状態といった社会的変化ほどおそらく重要ではない」と著者たちはいう。
だとしたらいったいなにが原因なのか? 本書に掲載された膨大なデータが指し示す結論はひとつしかない。それは、「絶望死の原因は貧困でも経済格差でもなく、学歴(教育)格差」だということだ。
知識社会が高度化するにつれて、仕事に必要とされる学歴や資格のハードルが上がっていくことを「スキル偏向型技術変化」という。これに対応するために労働市場での大卒の割合が増えれば、雇用者は非大卒でじゅうぶんな仕事でも大卒を優先的に雇うようになる。その結果、非大卒は労働市場から排除されてしまう。
このことをよく示しているのが、リーマンショック以降の回復期のアメリカの雇用状況だ。2010年1月から2019年1月の期間で、労働市場における25歳以上の大卒者の就業人数は合計1300万人増えた。それに対して学士号を持たない就業者の増加は270万人で、高卒以下となるとたったの5万5000人だ。
大卒と非大卒の賃金格差も開いている。1970年代後半、大卒労働者の賃金は非大卒より平均40%高かったが、2000年までには「賃金プレミアム」は倍増し、「天文学的な80%という割合になった」。2017年、高卒者の失業率は大卒者のほぼ2倍だった。高卒資格しか持たない45~54歳(賃金がピークを迎える年齢)の4分の1が働いていないが、学士号以上は10%だ。
2018年の国勢調査では、25歳から64歳のアメリカ人(労働年齢人口)1億7100万人のうち62%(約1億人)が非ヒスパニック白人で、そのうち62%が4年制の学位を持っていない。「絶望死」の高リスク層である低学歴白人の数は約6000万人(労働人口の38%)で、これは2020年の大統領選でトランプが獲得した7000万票と不気味なほど近い。
「知識社会における経済格差とは“知能の格差”の別の名前である」
絶望死の原因がメリトクラシー(能力主義)であり、学歴(知能)による選別であることは明らかだが、奇妙なことに、著者たちは「どうすればいいのか?」の提言で、教育にわずか2ページしか割いていない。これが本書の3つ目の論点で、その理由は、教育に予算をかけて大卒者を増やせば解決するような簡単な問題ではないことがわかってきたからだろう。
アメリカではメディアや教育関係者が、「大卒資格がなければまともな仕事につけない」と騒ぎ立てたことで、就学しなくても学位を授与する「ディプロマミル(学位商法)」が広がり、なんの役にも立たない学位を取得するために多額の学生ローンを抱えるひとたちが急増する事態になっている。
「まともな」大学に入学しても、日本とはちがって卒業が難しいため、学生の半数近くが中退し、資格もないのに負債だけを抱えている。いまでは「高等教育にちからを入れよう」と提言すると、こうした被害者を増やすことになってしまうのだ。
だが著者たちは、正統派の経済学者として、富裕層課税やベーシックインカムのような「レフト(左翼)」の好む政策には慎重な態度を崩さない。問題の本質が「貧困」ではなく、「仕事の消失」に端を発した「人生の崩壊」だとすれば、お金を配っても絶望死は解決できない。富裕層課税については、「貧しい人々があまりにも多く、金持ちはあまりにも少ない」ため、貧困層にとってはたいした救済にはならないとする。
だったらどうすればいいかというと、オピオイド禍を引き起こした製薬会社や、世界でも桁違いの医療費にもかかわらず「平均余命の減少を食い止めることができていないだけでなく、むしろその減少に貢献している」アメリカの医療制度など、できるところから着実に改善していくことを提案している。とはいえ、「泥棒を止める正しい方法は盗みを止めさせることであって、税金を上げることではない」という穏健な現実主義が、怒れるひとびとにどこまでアピールできるかは疑問だ。
なお、政治学者のチャールズ・マレーは2012年の『階級「断絶」社会アメリカ』(草思社)において、アメリカの白人社会で「大卒/非大卒」の分断が起きており、低学歴白人ではコミュニティが崩壊し、失業率や未婚の出産が激増し、黒人貧困層と同じような事態になっていることを指摘している。ディートンとケースの『絶望死のアメリカ』は、マレーの著作を精緻化したものでもある。
[参考記事]
●アメリカ社会は人種ではなく“知能”によって分断されている
マレーはリチャード・ハーンスタインとの共著“Bell Curve”(1994年)で、黒人と白人の間に1標準偏差程度のIQの差があり、それが社会的・経済的成功に影響していると述べて憤激を買い、「遺伝決定論」「優生学」「人種主義者(レイシスト)」のレッテルを貼られ、アカデミズムから実質的に排斥された。だがいまや、ノーベル経済学賞を受賞したリベラルな経済学者が、自分たちの先行研究としてマレーの著書を挙げるようになった。
もちろん著者たちは“Bell Curve”についてはひと言も触れていないが、「知識社会における経済格差とは“知能の格差”の別の名前である」というマレーとハーンスタインの主張を、リベラルな知識人が受け入れざるを得なくなるのも時間の問題ではないだろうか。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)。
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