橘玲の日々刻々 2021年3月25日

1970年代から始まった生存重視から自己表現重視への価値観の「進化」。
日本人が「国のために戦いたい」と思わず、幸福にもなれない理由
【橘玲の日々刻々】

 ミシガン大学社会調査研究所教授で政治学者のロナルド・イングルハートは、世界のひとびとの価値観を比較する「世界価値観調査」の創設者・主導者として知られている。『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』(勁草書房)は、100カ国、40年に及ぶ調査にもとづいたイングルハートの研究の集大成だ。本書の後半では、2016年のイギリスのEU離脱、アメリカのトランプ大統領誕生をこれまでの調査結果をもとに論じている。

 興味深いのは、イングルハートが意図的に「進化(Evolution)」という言葉を使っていることだ。これまで社会科学では、進化は生物だけに適用すべきだとされてきた。その背景にはもちろん、ナチスの優生学を生んだ「社会進化論」への忌避感がある。だがイングルハートは、あえて自らの理論を「進化論的近代化論(evolutionary modernization theory)」と名づけた。

「ひとは若いときに身に着けた価値観をずっともちつづける」

 イングルハートの主張は、骨子だけを取り出すのならきわめてシンプルで、「社会がゆたかになるにつれて、ひとびとの価値観は物質主義から脱物質主義にシフトしていく」になる。これは「集団主義」対「個人主義」、「秩序(Embeddedness)」対「自立性(Autonomy)」などさまざまな呼び方をされるが、イングルハートは「生存重視の価値観(Survival Value)」と「自己表現重視の価値観(Self-expression Value)」とする。

 生存重視から自己表現重視への変化は、以下の3つの要因によって1970年代から先進国を中心に始まり、その後、半世紀にわたって世界じゅうに広がった。

1)西ヨーロッパ、北アメリカ、日本、オーストラリアにおける戦後期の飛躍的経済成長
2)飢餓によって死亡する人をほぼ皆無とするセーフティネットを備えた福祉国家の出現
3)第二次世界大戦以降史上最長期間を記録する、主要大国間における戦争の不在

 こうした条件が整うと、なぜひとびとの価値観に大きな変化が起きるのか。その理由もきわめてシンプルで、「ひとは生存のために死に物狂いになっているときに自己表現のことなど考えられないが、生存について心配しなくてもよくなれば自分を表現したくなる」からだ。

 心理学者のアブラハム・マズローは、人間にとってもっとも重要なのは「生理的欲求」「安全欲求」であり、それが満たされてはじめて「社会的欲求(家族や共同体からの包摂)」「承認欲求(他者や共同体からの評価)」「自己実現欲求(自分らしく生きる)」などより高度な欲求をもつとする「欲求5段階説」を唱えた。

マズローの欲望五段階説     イラスト:natsuno-umi / PIXTA(ピクスタ)

 イングルハートはこれを個人から社会(文化)へと拡張し、ゆたかになるにつれて生存や安全への不安がなくなるのだから、価値観は物質主義的なものから、(社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求のような)脱物質主義的なものに「進化」していくはずだと考えた。

 「進化論的近代化論」のポイントは、価値観の変化には「世代効果」と「経路依存性」があることだ。

 「古典的近代化論」では、「価値観は時代とともに(世代にかかわらず)変わっていく」が、「若いときはリベラルでも、年をとるにつれて保守的になる」と考える。イングルハートの重要な業績は、膨大なデータを検証して、「ひとは若いときに身に着けた価値観をずっともちつづける」という強固な世代効果を確認したことだ。

 もちろん価値観は、そのときどきの社会・経済的な環境の影響を受ける(これを「時期効果」という)。景気低迷期にはどの世代も物質主義的になり、景気が回復すると脱物質主義的になるが、それでも「ある出生コーホート(世代)と別の出生コーホートの差はずっと変わらない」。ゆたかな社会では若者はよりリベラル、高齢者はより保守的な価値観をもち、景気が悪化すると若者の価値観も保守的な方向に変化(逆行)するが、高齢者はさらに保守化するので、世代間の価値観が逆転することはないのだ。

 これによって、なぜ文化が「進化」するのかのメカニズムも説明できる。若い世代がよりリベラルな価値観をもち、それが歳を経ても変わらないのなら、(保守的な)高齢者世代が退場していくことで社会全体の価値観はリベラルな方向へとシフトしていくだろう。これはスティーヴン・ピンカー(『21世紀の啓蒙 理性、科学、ヒューマニズム、進歩』NewsPicks)らの「社会はますますリベラルになっている」との主張とも整合的だ。

 さらに、リベラルは大卒、保守は非大卒に多いという明らかな「学歴差」があり、エリート層のほうが「声が大きい」。エリートはメディアや言論空間を支配しているから、脱物質主義的で自己表現重視の価値観が一定のレベルまで広がると社会全体の雰囲気が変わり、「文化進化」がさらに加速する。こうして「ポリティカリー・コレクトネス(政治的公正)」が第二の法になるのだろう。

 「世代効果」に対して「経路依存性」では、国ごとに文化パターンが異なる。イングルハートによれば、初期の文化のちがいは、世界全体がゆたかになり、自己表現重視へと文化シフトが起きてもなかなか変わらない。

 この経路依存性によって、一国内の価値観のばらつきよりも、国と国との価値観のばらつきの方が大きくなる。属性がよく似た個人(たとえば高学歴エリート)を比較しても、所属する文化の影響を受けて、その価値観はかなり異なっている。近代化論者が予想するように、グローバリゼーションによって世界じゅうのひとたちの価値観が一点に収斂するようなことは(当面は)ないのだ。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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