オットー・バウアーによる第1次大戦後のオーストリア経済復興策は、アンシュルス(独墺合邦)によって大ドイツ圏の一部となり(★注1)、規模の経済によって復興を図ること、そしてドイツ社会化委員会でオーストリアに先行して議論され、法案も通った「産業の一部国有化」、つまり社会化政策によるものである。社会化によって主要産業の生産力を回復し、労働者に厚く所得分配することを目的としている。

 前回は「アンシュルス」に対するバウアーとシュンペーターの論戦を説明したが、今回は社会化をめぐる2人の対立をみてみよう。現在の世界経済危機に通じる論争である。

ドイツ炭鉱の社会化を
進めたシュンペーター

 1919年3月、オーストリア社会民主党幹部がグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘したのは、シュンペーターがドイツ社会化委員会(第1次)の委員として活発に社会化政策を推進したからにほかならない。

  社会化はドイツ語でsozialisierung(ゾチアリシエルンク)という。もともと「社会主義的になること」という客観的過程を表す場合と、「社会主義化すること」という能動的行為を表す場合がある。1918年11月ドイツ革命の大きな標語となった。ところが、社会化という言葉は急進的革命派から漸進派、はては保守派まで使うようになったため、非常に幅広く流通し、多義的になったという(★注2)。

 ドイツ社会民主党と独立社会民主党は、社会化を全面的国有化ではなく一部国有化と考え、けっして急進的な社会主義革命(ボリシェヴィズム)を望んでいない。これはオーストリア社会民主党も同様である。つまり、資本主義的社会主義である。

 ドイツ社会化委員会の目的は、「炭鉱を社会的所有に移すこと、それを社会的管理のもとにおくこと、そしてそのために独立の経済組織を設立することであった。(中略)生産関係を『社会全体の利益』の名のもとで調和させ、資本主義体制のもとで、階級間の宥和ができるかぎり実現するような体制を構想したのであった」(阪上孝氏による★注3)。

 1919年3月に炭鉱の社会化が立法化されるが、ここでは「『生産手段の社会的所有』は、もはや問題とされず、炭鉱資本の組織である中央シンジケートによる石炭生産と分配の計画的規制が決定されただけであった」と、阪上先生は述べている。しかし、これでも十分に社会主義的政策(★注4)、つまり政府による生産管理といえよう。

 簡単にいうと、急進派と超保守派、つまり極左と極右の世論を排して石炭の国家管理システムをつくったようなものだろう。

 ドイツ社会化委員会でシュンペーターは以上の結論を導いた多数派に属し、レーデラーやヒルファーディンクとともに積極的に発言している(★注5)。