橘玲の日々刻々 2021年4月22日

「移民は地域経済にプラス」「格差拡大はグローバリズムが原因ではない」
常識を覆す「絶望を希望に変える」ノーベル賞受賞経済学者の理論とは?
【【橘玲の日々刻々】

 アビジット・V・バナジーとエステル・デュフロは、インドやアフリカなど発展途上国を舞台に、RCT(ランダム化比較試験)を使って経済政策を検証する独創的な研究を行ない、2019年に夫婦そろってノーベル経済学賞を受賞した。バナジーはインド、コルカタ生まれで、アジアからはアマルティア・センに続いて2人目、デュフロはノーベル経済学史上最年少で、なおかつ2人目の女性受賞者になる。

 そのバナジーとデュフロが2019年に刊行した『絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか』(日本経済新聞出版)は、トランプ誕生後の混迷するアメリカ社会に経済学はなにができるのか、という困難な問いに答えようとしている。2人がこの本を書こうと決めたのは、「富裕国が直面している問題は、発展途上国で私たちが研究してきた問題と気味が悪いほどよく似ていることに気づいた」からだという。

 原題は“Good Economics for Hard Times(困難な時代のためのよい経済学)”だが、邦題は本書のテーマをよく表わしている。とはいえ、「絶望を希望に変える」魔法のような処方箋があるのだろうか。

 なお、バナジーとデュフロの開発経済学での仕事をまとめた『貧困と闘う知 教育、医療、金融、ガバナンス』(みすず書房)は以前紹介した。

[参考記事]
●RCTにより明らかになったマイクロクレジットの“奇跡の物語”と不都合な真実

貧しいひとたちは経済的に「合理的」な計算をして移民・移住を選択しないことが多い

 2017年初めにインターネットベースの市場調査会社が「以下の職業の人たちがそれぞれ自分の専門分野についての意見を述べた場合、あなたは誰の意見をいちばん信用しますか?」と訊いたところ、1位は看護師(84%)で最下位は政治家(5%)、経済学者は下から2番目の25%だった。

 このかなり残念な結果に対して、正統派の経済学者である著者たちは、メディアによく登場する「エコノミスト」が根拠のない意見(ブードゥー経済学)をばらまくことや、平均的な経済学者が平均的なアメリカ人とかなりちがった見方をすること、経済学者の予想が当てずっぽうと同じくらいしか当たらないことなどを理由に挙げている。だが経済学の理論が市民から信用されないのは、日本でのかつての「リフレ論争」のように、しばしば経済学者同士が真っ向から対立し、見苦しい罵詈雑言の応酬を繰り広げるからではないだろうか。

 アメリカでは白人労働者階級が苦境に陥っているが、民主党(リベラル)はずっとそれを無視してきた。それに対してトランプは、メキシコからの移民と中国の不公正な貿易戦略、すなわち「グローバリズム」が諸悪の根源だと批判して彼らの熱狂的な支持を勝ち取り、大統領の座についた。

 アフリカや南アジア、ラテンアメリカなどで貧困問題と取り組んできた著者たちは、白人労働者階級の貧困(経済格差の拡大)を現実として受け入れたうえで、トランプが主張する「移民/自由貿易元凶説」の検証が問題解決への第一歩だという。

アメリカへ向かう移民たちのイメージ イラスト: Doomko / PIXTA(ピクスタ)

 「合理的経済人」を前提とする伝統的な経済学では、ひとびとはよりよい就業機会のある場所にシームレス(摩擦なし)に移動すると考える。だとすれば、アメリカと中南米の所得には大きな差があるのだから、国境に壁をつくらなければ不法移民が洪水にように押し寄せるにちがいない。トランプが語る「移民の恐怖」には経済学的な根拠があるのだ。

 だが現実のデータを見ると、経済学が予想するほど移民の数は多くない。2015年と16年にヨーロッパに大量の難民が押し寄せたが、これはシリアの内戦が激化するなど中東が混乱したからで、2018年には難民認定申請者の数は63万8000人に減り、うち認定されたのは38%にとどまった。これはEU市民2500人当たり1人で、「洪水のように押し寄せる」とはとてもいえない。

 アメリカ国内の移住でも同じことがいえる。工場が次々と閉鎖された中西部のラストベルト(錆びついた地域)では仕事がなくなる一方で、東部や西海岸は空前の好景気に沸き、レストラン業から配管工まで、低技能労働者にも賃金の高いさまざまな仕事が提供されている。だとしたらアメリカでは「移住の波」が起こるはずだが、現実には経済学の予想とは逆に、低所得層が富裕な州から貧しい州に移住し、地域格差がさらに拡大している。「国家間あるいは地域間の賃金格差は、人々が移民になる決意をするかどうかと実際にはほとんど関係がない」のだ。

 どうやらほとんどのひとは、経済的な苦境に見舞われても住み慣れた土地を離れるのをためらうようだ。それはたんに、家族や近隣住民との「きずな」を大切にしているからではない。統計的にはいまよりゆたかになれるとしても、見ず知らずの土地で「自分が」成功できるとはかぎらない。人生を賭けた決断をするには、現地でビジネスをしている家族・親戚がいるなど、一定の条件がそろっている必要がある。

 アメリカ国内でも、ニューヨークやサンフランシスコは極端に家賃が高く(その原因は自治体の景観・環境規制だ)、多少時給が上がったくらいではもとが取れないし、保育園に公的補助がなく、実家から離れると共働きができないなどの事情もあり、移住の機会を活用できないひとたちが膨大にいる。

 貧しいひとたちは「不合理」ではなく、経済的に「合理的」な計算をしたうえで移民・移住を選択しない。それでもときに「移民の洪水」が起きるのは、戦争や内乱、ギャング組織の支配などで生存そのものが脅かされるからで、たんに「ちょっとゆたかな暮らしをしたい」くらいではいまの生活を捨てようとは思わないのだ。

移民は本人だけでなく受入国にも大きな恩恵を与える

 移民についてのさらなる誤解は、「低技能の労働者が大量に流入すると雇用が奪われる」だ。しかし現実には、「移民の流入で地域経済が活性化し、雇用が増える」というまったく逆の効果が観察されている。

 なぜこんなことが起きるのかは、基本的な経済法則で説明できる。

 経済移民は収入の多くを故国に送金するだろうが、それでも生きていくためには商品やサービスを購入しなくてはならない。収入を得て生活する人間が増えれば、それが低賃金であっても地域経済は活性化する。人口が減れば市場は縮小し、人口が増えれば市場が拡大するのだ。

 「移民によって低技能の仕事をしていた国内労働者の雇用が失われる」は常識になっているが、これもデータでは「国内労働者の地位が上がり、収入が増える」ことを示している。移民一世は現地の言葉を話せず、雇用者が移民を活用しようと思えば、自国語話者の管理職的な労働者がどうしても必要になるのだ。

 言葉が話せるかどうかは大きな能力差なので、移民一世が国内労働者のライバルになることはあり得ない。むしろ移民が増えると、「受入国の未熟練労働者は肉体労働からそれ以外のポストに昇格したり、コミュニケーション能力やより高度な技能を必要とする仕事に転職したりした」ことがわかった。移民は受入国労働者と競合せず、むしろ補完するのだ。

 欧米でも日本でも、先進国は低技能移民を拒否し、高技能移民を積極的に受け入れようとしている。医師が不足している地域で外国人医師が働くようになれば地域のひとたちは多大な恩恵を受けるだろうが、雇用という面だけでいえば、高技能移民の方が受入国の賃金水準を押し下げる。

 アメリカでは、高度な技能と資格を持つ外国人看護師が1人雇用されると、アメリカ人看護師の数が1~2人減ったという。同様に、高い学歴や資格をもつ移民は医師、エンジニア、大学教員などの雇用を「破壊」する可能性がある。

 移民についての根強い誤解は、低技能を「能力がない」のと同一視することだ。そのため、「役に立たない移民が殺到したら大変なことになる」との不安が掻き立てられる。

 だがヒトの本性は「移民しない」ことなのだから、それでも移民を決断したひとたちには、高いハードルを越えて海外で成功できると信じるなんらかの理由があるはずだ。彼ら/彼女たちは教育を受ける機会がなく、学歴も資格ももっていないかもしれないが、「平均的」な労働者ではなく、野心、忍耐力、体力、技能などなんらかの「並外れた能力」を備えたひとたちなのだ。

 アメリカは「機会の国」で、誰でも刻苦勉励で成功できるとされているが、実際には北欧諸国はもちろん日本に比べても階層間の移動が少ない。すなわち、「ゆたかな家庭に生まれた子どもはゆたかに、貧しい家庭に生まれた子どもは貧乏になる」社会だ。それにもかかわらず移民出身の成功者が目立つのは、移民が平均的なアメリカ人より優秀だからで、だからこそ脅威と見なされるのかもしれない。――ちなみにドナルド・トランプもドイツからの移民三世だ。

 だとしたらなぜ、先進国で失業が大きな社会問題になっているのか。その理由は、じつは機械化だと著者たちはいう。そしてこのことが、自国の労働者を保護しようと移民を締め出すことが、かえって労働者から雇用を奪うという皮肉な事態を生み出している。

 収穫の時期に移民の季節労働者を受け入れていた農園主には、わざわざお金をかけて機械化を進める理由はない。ところが政府が移民の受け入れをやめると、自国の労働者を高い賃金で雇うのではなく機械化で対処しようとする(機械化しやすい作物に転換する)。その結果、既存労働者の賃金は増えず、機械化だけが進んで雇用市場が縮小する。

 同様に、海外から国内に製造業の拠点を移しても機械化・ロボット化でコストを抑制しようとするため、労働者階級の雇用が拡大するわけではない。テスラの工場でどれだけの「低技能労働者」が働いているのかを見ればこのことは明らかだろう。

 事実(データ)を素直に解釈すれば、移民によって本人だけでなく受入国にも大きな恩恵が与えられる。だとしたら問題は、ゆたかになる機会があるにもかかわらず、ひとびとが移民・移住したがらないことだ。

 こうしてバナジーとデュフロは、常識とはまったく逆に、いま必要なのは「移民を促進する経済政策」だという。経済学の原理どおりに、ひとびとがよりよい機会を求めて自由に移動することで、効率的でゆたかな社会が実現できるのだ。


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